【福岡県みやこ町】石棺は大分県九重山から運ばれた?古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」「女帝神社」へ

豊前市に移住して慣れてきた頃、周辺の町にも出かけるようになりました。

そこで知ったことは、みやこ町の古墳の数。

そこら中にあると言っても過言ではありません。

 

福岡県は実は奈良県より古墳の数が多いようですが、その福岡県内では行橋市や苅田町そしてみやこ町が古墳が多い地域のようです。

 

今年に入って一度行ってみようと向かったのは、みやこ町勝山黒田にある「綾塚古墳」です。

 

2月の最初らへんに住んでいる豊前市で震度は1ながら珍しい体感地震が起きて、その震源地がこのエリアだったんですよね。

気になった時が見に行くタイミングとばかりに、いそいそと足を運びました。

 

綾塚古墳(Ayatsuka Tumulus)

綾塚古墳は、7世紀前半頃につくられた直径約40mの円墳です。花崗岩の巨石を積み上げて構築された石室(遺体を埋葬するための施設)は、全長約19mを測り、当時の点t脳や後続の陵墓とみられている古墳の石室と同じ規模であることから、国内でも稀に見る横穴式石室として広く知られています。玄室(遺体をおさめる施設)には、京築地域で唯一の家形石棺が安置されています。石棺は、みやこ町やその近辺では採取できない「デイサイト質凝灰岩」という加工に適した石材が用いられており、蓋には6箇所に縄を掛けるための突起が掘り出されています。

また17世紀のはじめ頃、初代 小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき)の家臣がこの石棺を割り、小倉に運ぼうとしたところ、数々の災害が起きたため元に戻したと伝えられています。これ以降、石棺は信仰の対象となり、現在まで地域の人々によって大切に守られてきました。

みやこ町教育委員会

みやこ町 綾塚古墳 駐車場

 

移住した豊前市から車で約40分ほど、「綾塚古墳駐車場」に到着しました。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

整備された駐車場を降りると、古墳への標識が出ていました。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

駐車場から標識の方角を見ると、それらしき土の盛り上がりと鳥居が見えたので、歩いて向かっていきます。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

車両は侵入禁止なんですね。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

歩いていくと、古墳の入口がはっきり見えてきました。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

花が咲いている木もあり、古墳周囲にはベンチもありました。

地域の人がお手入れしているのでしょうか。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

鳥居をくぐると、まさに古墳が迫ってきます。

平気な人は平気なんでしょうけど、私は怖いですよ、いつも。

しかもこちらの古墳、石棺を割ったら数々の災害が起きたって。

失礼がないようにと緊張しました。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

気力を奮い立たせて、古墳内へ。

前述した細川忠興が割ってしまって祟りを引き起こしてしまったという石棺があったそうですが、凝視できません。

古墳ファンの方たちから、ここを撮らないでどうする!と言われそうですが、ぜひ古墳ファンの方たち詳しく発信していただけたら…。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

「お邪魔しました…」と心のなかでつぶやきながら、お参りして反対方向を向きました。

鳥居があるのはこの古墳が神社でもあるからです。

 

 

鳥居の扁額には「女帝神社」と刻まれていました。

調べてみたら、今は無くなった由緒書きに以下のように書かれていたようです。

 

綾塚古墳

福岡県京都郡勝山町大字黒田字綾塚

昭和四十八年四月十四日国指定史跡

この古墳は、約1300年以前の六〜七世紀頃に築造されたものであり、直径が四一メートルの二段築成の墳丘と幅四・五メートル余りの周濠のある円墳で、丘陵の先端部を利用して築造されています。

羨道、入口から玄室の奥まで約二一メートルあり、巨岩を使った玄室には、縦一・三メートル、横二・七メートル、幅一・七メートルの大型石棺が納められています。

この石棺には、屋根型の石蓋があり、慶長年間に国主、細川忠興の家臣等が、石棺に内蔵すると思はれる財物を小倉に送致しようとして石蓋を毀損したため種々の災害が起り、元の状態に戻したと伝えられています。

又、この石棺は、大分県九重山から運ばれ古墳築造の過程で安置されたものと推定されています。この古墳は地元では、綾塚の郷屋と呼ばれており、景行天皇の妃、八坂入姫命(いりひめのみこと)を祭り、女帝窟又は女帝権現綾塚神社と称していましたが、明治二十四年に女帝神社と改められました。綾塚古墳については、本居宣長も紹介しており、全国的にも希れにみる雄大な横穴石室を持っている点で極めて貴重な史蹟であり、毎年全国から多くの見学者が訪れています。

平成元年三月

勝山町教育委員会

 

石棺の中の財宝を殿様に送ろうと、細川忠興の家臣が蓋を割って、数々の災害が起こったとありますが、その石棺が「大分県九重山から運ばれ古墳築造の過程で安置されたものと推定」。

新たな由緒書きには無かった情報です。

石棺の素材は「デイサイト質凝灰岩」であることが分かっていますが、その石材はみやこ町近辺で採れないようです。

ということは、今はない看板の情報の、「大分県九重山」またはその付近で採れたということなのでしょうか。

 

【福岡県みやこ町】古墳時代後期の横穴式石室古墳「綾塚古墳」へ

 

古墳近くのお宅から、番犬であろうワンちゃんに吠えられましたが、逆に安心しました。

 

ホッと駐車場にたどり着いたところで、ウォーキング中のご近所マダムから「郷屋(ごうや・古墳のこと)を見に来られたんですか、でしたら次はこの『胸の観音』に行かれるといいですよ!それはもう、すごいですから。以前は胸の観音に来たら、ここの郷屋も皆さん参拝されていたんですよ」と教えていただきました。

 

マダムが話してくれる様子を見た限り、綾塚古墳は地域の人にとっては古墳というより守り神的な存在のようでした。

 

新たな情報「胸の観音」はGoogleMapで名前だけ見たことがありましたが、巨石祭祀の名残のようで、古代からの祭祀場のようでした。

「いつか行きたいリスト」にまた気になる史跡が加わりました。

関連記事

おすすめの記事