前から行ってみたかった豊後高田市香々地の別宮八幡社。(GoogleMapでは「別宮八幡宮」)
西暦でいえば717年〜724年になる養老年間に、宇佐神宮の別宮として最初に建てられた神社であり、現存する5つの別宮のうち、最も規模が大きいと言われている。
養老年間(717年〜724年)に国東半島に設けたとされる、宇佐神宮の5つの別宮の一つで、現存する4つの別宮の中でも随一の規模を誇ります。
毎年7月29日、30日に行われる「オンバレ」と呼ばれる御田植え祭は有名な行事となっているそうです。
豊後高田市公式観光サイトから引用
ナビをセットする時、これまで何度も行った長崎鼻のすぐ近くにあったことを、今更気づく。
神社の入口側、だいぶ手前から見ても大きく感じる楼門に近付いてみたら、右三つ巴紋を見つけた。
屋根など他の部分には左三つ巴紋のほうが多かったが、この神社の特徴とも言える楼門の金具に右三つ巴紋。
ここしばらく、右三つ巴紋について色々調べているので、見つかって嬉しい。
ちょうど神社をずっとお世話しているという女性から話を聞くことができ、この別宮八幡社はかつて海だったという。
この岩の大部分はかつて大部分が地表に出ていたそうだが、海だったこともあり、土が柔らかかったため今のように沈んでしまったそうだ。
それが海だった名残であると。
別宮八幡社が創建された養老年間といえば、宇佐神宮にとっても重要な出来事が起こった時期だ。
宇佐神宮公式サイトの年表から以下
- 716年(霊亀2年)神託により社殿を小山田の地に遷す。(現小山田神社)
- 720年(養老4年)大隅・日向の隼人反乱す。宇佐宮へ乱の平定を祈る。後に放生会を始める。
- 725年(神亀2年)神託により小倉山に社殿(一之御殿)を造営し、併せて日足の地に弥勒禅院を建立す。
宇佐神宮の最大の祭礼行事である「放生会」の始まりのきっかけとなった大隅・日向の隼人の反乱が起こっている。
それに養老年間の直前には神託により社殿を小山田の地に遷されたようだ。
この時期にあえて宇佐神宮の別宮が国東半島に建てられた意味とは何だったのだろうか。
そんな肝心のことが、観光サイトなどで書かれていないのが何とも惜しい。
「別宮八幡宮が宇佐神宮の5つの別宮の一つ」なら、ほかの4つはどこなのか。
具体的には記載されていない。
分かったら、もっと面白いのにといつも思う。
自力で調べてまた分かれば追記していくつもりだ。
まだ見つけた数が少ない右三つ巴紋だけど、「海」に関わる神社が多いように感じている。
別宮八幡社の場所
〒872-1202 大分県豊後高田市香々地