豊前市に移住してから、史跡が今なお残り続けている場所が多いことから、古墳の上に神社がよく建っていることに気がつくようになった。
古墳といえば「お墓」、なぜ神社とセット…と疑問に思ったら、元々古代の首長たちが祀られていた場所は怖いところではなく神聖な場所であり、一等地。
亡くなった首長は民を守ってくれると大切に埋葬し祀った、といってよいのだろう。
そして時が経ち、そこに神社ができた、というのが歴史の流れのようだ。(古墳が先)
身近な歴史なのに知らないことが多い。
神社の成立、古墳との関係を教科書に書いてくれたらよいのにと思う。
今年の春に行った、大分県宇佐市の「乙咩神社」も古墳がある神社だ。
宇佐宮境外八摂社(田笛・鷹居・乙目・大根河・郡瀬・泉・妻垣・小山田)の一つ。
かつて6年ごとに催された宇佐神宮の特殊二大神事「行幸会」に関係する神社。
行幸会とは
宇佐神宮最大にして幻の特殊神事としてこの地域で語られる「行幸会」は、八幡大神の霊験維持を目的に奈良時代より6年に1度八幡大神の依代である御験(御神体)を入れ替える儀式として行われていたと伝えられています。新しい御験は八箇社と呼ばれる八幡大神ゆかりの地を巡り宇佐神宮上宮に納められ、旧御験は杵築市八幡奈多宮に納められたと記録されています。旧暦7月1日から11月下旬までに渡って豊前と豊後にまたがり1000人を超える行列を組み行われた壮大な祭りは、江戸時代初期の元和2年(1616年)に中津城主細川忠興が行った行幸会を最後に、現在は断絶し幻となっています。
「豊の国千年ロマン観光圏」の資料から引用
行幸会は幻とも言われるおよそ5ヶ月に渡る壮大な祭り。
想像できないほどの規模だ。
松尾則男著「おおいたの古墳と神社」にも乙咩神社の記述がある。
『安岐町史』の「氏神信仰と宇佐八幡宮の成立」の文中で、中野幡能教授は、宇佐の八摂社には、どれにも付近に古墳か貝塚があり、それらのことは、律令制以前宇佐の国造時代其の根拠を移した跡であると述べています。
松尾則男著「おおいたの古墳と神社」から引用
律令制以前ということは、大化の改新より前にこの地にいた勢力が根拠(根城)を移した場所が神社であるということだろうか。
いつも思うが昔の歴史の本は日本語が難しくて、自分の理解で合っているのか自信がない。
乙咩神社の方形周溝墓
当神社は宇佐神宮と密接な関係をもつ八箇社の一つであり、710年の創建と伝えられています。
境内には古くから破損した石棺が存在していました。近年の発掘調査により、これは石棺のまわりに方形に溝をめぐらした方形周溝墓と呼ばれる墳墓であることが分かりました。溝の一辺の長さは約15メートルを測ります(砂とレンガで標示)。副葬品など年代の手掛かりとなるものは発見されませんでしたが、墳墓の形などから5世紀頃に造られたののと思われます。
石棺の横には江戸時代後期の石の祠が祭られていますが、これを建設する際に石棺が掘り出され、横に移されていました。
この墓に埋葬された人物は黒川流域に勢力をはった豪族であり、祖先神に対する崇拝が後の奈良・平安時代頃に八幡信仰と結びついた可能性が考えられます。
平成元年9月1日 乙咩神社氏子一同
宇佐の文化財を守る会
御祭神
仲哀天皇(第十四代) 神功皇后
應神天皇(第十五代) 比売大神(三女神)
仁徳天皇(第十六代) 日本武尊
天児屋根命 別雷命
御由来
當社は今年より千二百九十年前人皇第四十三代元明天皇和銅三年現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬を設けて仲哀天皇神功皇后應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが御創建と言ふことになつております。
又比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合せまつられた神々であります
本社は乙比咩社乙咩八幡宮乙咩社などととなえられておりましたが明治四年乙咩神社と号することになりました。往昔この地は八幡大神の御神霊御霊幸の霊地として宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ又朝廷より奉幣使等の御参向もあつた程のまことに御由緒の深い神社であります。
尚宮下の南にある乙女水(誓水)は八幡大神御霊幸の際最もゆかりの深い御霊水と伝えられております。
御祭日
二月二十五日 祈年祭 五穀の豊作を祈願
四月三日 例祭 當神社に最もゆかりのある祭日
十二月十四日 新嘗祭 新米を献じ神恩に感謝
平成十一年四月 謹書
神社の由来書によると明治の始めになって「乙比咩社乙咩八幡宮乙咩社」から「乙咩社」に号することになったらしい。
最も最初の「乙比咩社」が消された…ということだろうか。
廃仏毀釈の時期と重なるのが気にかかるところだ。
「乙比咩」=乙姫=豊玉姫(瀬織津姫・高龗神)とつい連想してしまう。
それに御祭神の「別雷神」について、松尾則男著「おおいたの古墳と神社」で気になる記述があった。
明治五年に郷社・明治十一年に宇佐神宮の境外社となる。『宇佐市史』による由緒書は次のとおりです。
仲哀天皇以下三柱は欽明天皇の御宇荒城潮辺に御降臨、元明天皇の和銅三年に創建。田心姫神以下三柱は聖武天皇の天平九年四月に奉鎮、日本武尊以下三柱は淳和天皇の天長九年に鎮座。明治五年郷社に列せられ、明治十一年宇佐神宮摂社に定められた。
別雷命は往昔貴船大明神を祭祀、後、万治年間に加茂皇大神を鎮座した。天照大神以下十柱は大字下乙女宇野間口に鎮座して居たのを、明治四十二年二月二十日許可を得て、明治四十三年三月十五日合祀した。当社は宇佐八幡行幸会八ヶ所の一つで、宇佐神宮とは密接な関係があり、明治十一年には同神宮の境外摂社となっている。
建造物は本殿(流造)・神殿・回廊・拝殿があり、境内は九一二坪、例祭は四月三日。
境内社は、両社宮・春日神社・住吉社・北辰社・高良社・八坂社・生目社・蛭子社の八社。
その他に、境内に誓水祠、古墳時代の石棺等がある。
当社は行幸会の祭礼には「ほうてう」を祀ることになっている。
松尾則男著「おおいたの古墳と神社」から引用
別雷命は昔、貴船大明神を祭祀していたのが、後の万治年間(1658年7月 – 1661年4月)に加茂皇大神を鎮座したという。
別雷命と貴船大明神に関連があるのだろうか。
別雷命は「賀茂別雷命」、京都でもっとも古い神社といわれる賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御祭神である。
「記紀神話には登場しない地方神のひとつで、山城の賀茂族の系譜にあたる氏族神」とされている。
「母は賀茂建角身命かの娘、玉依姫で、瀬見の小川で、流れてきた丹塗にぬりの矢に感じて生まれた神」という。
御霊水の写真
乙咩神社の場所
〒879-0302 大分県宇佐市下乙女1343