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「宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か」より宇佐八幡の形成と信仰の歴史まとめ

全国に祀られる八幡社の総本宮は宇佐八幡宮であり、伊勢神宮に次ぐ皇室の祖廟として崇敬されているといわれます。

子どもの頃、日本史の教科書で「道鏡事件」を目にし、記憶に残っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「道鏡事件」とは奈良時代の政治事件で、僧侶・道鏡が天皇の座を狙ったとされる出来事です。
称徳天皇(孝謙天皇)が、道鏡を非常に信頼し、彼の影響力が強まりました。

それが769年、宇佐八幡宮の神託として「道鏡を天皇にすれば国家が安定する」という噂が広まり、称徳天皇はこれを受け入れる意向を示しましたが、和気清麻呂が八幡神の真の託宣として「天皇は皇族でなければならない」と報告し、道鏡の即位を阻止しました。

結果、道鏡は失脚し、政治の中心から排除され、最終的に地方に左遷されました。

この事件を契機に、皇室が僧侶の政治介入を避けるようになり、政教分離の動きが強まりました。

 

そんな天皇制をゆるがす大きな事件で、大和(奈良県)にある中央政権側が、なぜわざわざ大分県の宇佐神宮で皇位継承に関わる重要な神託を受けようとしたのか、疑問に思っていました。

大人になって八幡神の成立について調べてみたところ、その複雑さに驚きました。

 

ちょうどその辺りについて、様々な文献を参照して分かりやすく書かれた記事が見つかったので、以下にまとめておきます。

参考記事は別府大学地域連携プログラムWebサイト内「安倍和也氏著『宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か』」です。

 

※2010年に最後の更新が行われたようなので、新しい記事ではありません。

※最新の情報が分かればこちらもアップデートします。

①なぜ宇佐八幡宮が天皇家の祖廟となったのか

八幡信仰の全国的な展開

全国に祀られる八幡社の総本宮は宇佐八幡宮であり、伊勢神宮に次ぐ皇室の祖廟として崇敬されている。

宇佐八幡の祭神は、一の御殿に応神天皇(ホムタワケノミコト)、二の御殿に宗像三女神、三の御殿に神功皇后を祀る。

宇佐八幡が祖廟とされる背景

八幡大菩薩は清和天皇の即位(858年)に関わる託宣や、平安時代以降の朝廷の信仰を背景に皇室の祖廟と位置づけられた。

特に奈良大仏鋳造や皇位継承における神託が八幡信仰の広がりを後押しした。

宇佐八幡が祖廟とされる背景

八幡神は応神天皇の神霊(応神信仰)と渡来神(辛国神)が僧法蓮により合体して創出された新たな神である。

宇佐八幡宮の前身である鷹居社から始まり、小山田社、小椋山を経て現在の宇佐八幡宮へと遷座。

宇佐國造氏と八幡神

宇佐國造氏は元々宇佐地域を治めていたが、磐井の乱(527年)の後に衰退し、後に辛島勝氏(渡来系)が宇佐を支配。

宇佐國造氏の祖神であったタカミムスビノカミは、後に宗像三女神に置き換えられた。

八幡大菩薩への転換

八幡神が仏法に帰依して八幡大菩薩となったのは、国分寺や東大寺大仏の建立を通じて仏教が国教化する中で必然的に起きた変化。

八幡信仰は初期のシャーマニズム的性格を保ちつつ仏教と融合し、鎮護国家の神格となった。

応神天皇と八幡宮の主祭神問題

宇佐八幡宮の祭神配置は、一の御殿が応神天皇、二の御殿が比売神、三の御殿が神功皇后だが、配置は一般的な上座下座の常識から異なる。

応神天皇は八幡神として統一された人格神であり、その信仰は九州から大和へ広がったが、二の御殿の比売神(祟り神)による封じ込めという解釈もある。

このように、宇佐八幡は渡来系の信仰と土着信仰が融合して形成され、皇室の信仰を背景に全国的な八幡信仰の中心となった。

②八幡神を生み出したのは誰か

八幡神の構成

 

八幡神は、辛国神(渡来系の神)と応神天皇(ホムタワケノミコト)の神霊が合体して誕生した「新たな神」とされています。これは宇佐地方における神の統合によって生まれたものです。

 

誕生の経緯

宇佐地方では、渡来文化を持つ辛島勝氏が辛国神を祀り、大和系シャーマンの大神氏が応神天皇を祀っていました。しかし、双方の神をどちらかに決められず対立が続いていました。

この対立を解消するため、僧法蓮が調停役となり、辛国神と応神天皇を融合させて八幡神が誕生しました。

宇佐八幡宮の起源

八幡神は最初、鷹居社に祀られ、その後、小山田社、小椋山を経て現在の宇佐八幡宮へ移されました。

八幡神と仏教

八幡神は後に仏教の影響を受け、「八幡大菩薩」として仏法に帰依しました。この変化は、国家鎮護の役割を持つために、仏教と神道の統合が図られた結果とされています。

年表:宇佐八幡と八幡信仰の歴史

527年(磐井の乱)

宇佐國造氏が磐井に組し、大和政権に反抗。乱の後、宇佐國造氏は宇佐を離れたとされる。

 

583年(敏達12年)

応神信仰を奉じた大神比義が宇佐に入り、辛島勝氏との対立が始まる。

 

592年(崇峻5年)

辛島勝氏が宇佐川東岸の鷹居に「辛国神」の宮柱を立てる。宇佐國造氏がすでに宇佐の地を離れていたことが示唆される。

 

717年〜724年(養老年間)

宇佐神宮の5つの別宮が建てられる(最初に建てられたのは豊後高田市香々地の別宮八幡社)

 

720年

隼人の反乱
放生会の始まり

 

725年(神亀2年)

鷹居社の八幡神が小椋山に遷座し、現在の宇佐八幡宮の基盤となる。

 

733年

宗像三女神(比売神)が比売神社として八幡神宮の二の御殿に併祀される。

 

749年(天平勝宝元年)

八幡神が一品の叙位を受け、応神天皇の神霊としての性格が強調される。

 

769年

道鏡事件で、八幡神が皇位継承問題に託宣を与え、道鏡の即位を阻止。

 

811年(弘仁12年)

官符に「件大菩薩、是亦太上天皇霊也」と記され、八幡神が応神天皇の神霊として明確化される。

 

859年(天安3年)

八幡大菩薩の託宣により、岩清水八幡宮が京都に勧請される。清和天皇の即位祈願とその感謝が背景にある。

 

1072年(白河天皇)

白河天皇が岩清水八幡を「国家の祖廟」として崇敬。八幡大菩薩が鎮護国家の霊神としての地位を確立する。

 

1107年(鳥羽天皇)・1155年(後白河天皇)

両天皇が岩清水八幡を深く信仰。永久元年(1113年)には御願文で「大菩薩は国家の祖廟」と記される。

 

1200年代以降

宇佐八幡宮が八幡神を中心とした信仰の聖地として全国に広がる。四万社以上の八幡社が建立される。

 

まとめ:八幡神の起源と融合

宇佐八幡宮の八幡神は、辛国神(渡来神)と応神天皇の神霊(大和政権神)を僧法蓮が融合して誕生した新しい神である。

比売神は宗像三女神で、宇佐國造氏の祖神であるタカミムスビノカミの後裔と考えられる。