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社紋が右三つ巴紋の神社まとめと考察

家紋ならぬ社紋の世界。

最近GoogleMapで見つけた「右三つ巴紋」の神社が気になって、色々調べたので備忘録代わりにアップしておきます。
(この記事はまだ完成しておりません。新情報の追加や、もっと伝わりやすくなるように文章の修正などリライトを続けています)

右三つ巴紋と左三つ巴紋の見分け方

私はオタマジャクシの頭の向きでつい見てしまうんですが、巴紋の向きは、尻尾の向きで見分けます。

上の画像は尻尾が時計回り(右側)に伸びているので「右三つ巴紋」。
逆に尻尾が反時計回り(左側)なら「左三つ巴紋」です。

 

オタマジャクシのようなこの形の由来は勾玉、稲光、蛇、人魂、太陽と月などと諸説あり、定説が無いようです。

八幡神社は左三つ巴紋だけではない?

八幡神の総本社である宇佐神宮の社紋は左三つ巴紋です。

八幡神(応神天皇)を主祭神として祀る八幡神社は、左三つ巴紋が多い…というより、最近「ある神社」で違う向きの巴紋を見つけるまでは、巴紋に向きがあるとは全く意識していませんでした。

 

同じなのに巴紋の向きが違うのは何か意味があるのか?

その「ある神社」で見た三つ巴紋から、左三つ巴紋だけでなく、右三つ巴紋の神社があることを知りました。


そして左三つ巴紋の主に八幡系の神社の御祭神と、右三つ巴紋の主に八幡系の神社の御祭神に違いがあるという情報をネットで見つけました。

また、数でいえば左三つ巴紋がほとんど、たまに右三つ巴紋の社紋があるようです。

 

ソースがはっきりしないので、どんな違いがあるの、何か決まりはあるのかも含め、調べてみることにしました。

その時のメモ代わりに、それまでに分かっていたことも一緒にこの記事に綴っておきます。

国東半島の北側 国東市伊美町の伊美崎神社の社紋は右三つ巴紋

 私が見つけた「右三つ巴紋」があった神社とは、国東半島の北部でにある伊美町の海のそばの「伊美崎社」です。

道の駅くにみに立ち寄ってみようとGoogleMapで周辺を調べていた時に、海側に「伊美崎社」を見つけました。どどんな神社だろうとMapの画像を見ていくと、社殿にあるお賽銭箱の薄い社紋が右三つ巴紋でした。

 

GoogleMapの画像より引用 Nanbu Sさま投稿
GoogleMapの画像より引用 Nanbu Sさま投稿

お賽銭箱に薄く残る八幡神社でよく見た巴紋、それに伊美崎社の社殿が朱色であったことから、国東半島と関わりが深い宇佐神宮と関連がある神社なのかとばかり思いました。(明るい朱色は不幸と邪悪なものからの守護を象徴するという、意味があるそうです。)

伊美崎社の情報
(清和照允著『国見町沿革史(1968)』より)

◆祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫尊

◆由緒:創立年月不詳。明治四年(1871)村社に列せられる。

村の鎮守のドットコムから引用

 菊理姫尊といえば白山神社の御祭神です。

菊理媛命(菊理姫尊)は白山神社の主祭神として知られ、特に石川県の「白山比咩神社」が代表的な神社です。
彼女は『古事記』ではなく『日本書紀』の一書にのみ登場する女神で、黄泉の国でイザナギとイザナミの仲裁をしたことから、縁結びや商談成立の神とされています。
また、生と死を結ぶ役割からシャーマンの起源ともいわれます。

そんな「菊理媛」の名前を見て「もしかしたら…?」と思うところがありました。

これまで読んできた論文や書籍で綴られていたことと、つながったからです。

その「まさか」「もしかしたら」の理由について、長くなりますが以下にまとめていきます。

神社の扁額に刻まれた伊美崎社 菊理媛命
神社の扁額に刻まれた伊美崎社 菊理媛命

伊美崎社の三つ巴紋はどこから

まず伊美崎社に残された社紋がなぜ右三つ巴紋なのか。

通常、巴紋といえば八幡神(応神天皇)を祀る八幡神社で使われます。

もし巴紋がなければ、単純に伊美崎社の海を挟んだ先にある姫島との関連性が浮かぶのみで、行き止まっていたことでしょう。

伊美崎社が宇佐神宮や八幡神と何か関わりがあるのか。

伊美崎社の情報がほとんど見当たらないので、伊美崎社のすぐそばにある大きな神社「伊美別宮」にヒントがないかと調べてみました。

 

伊美別宮は、平安末期の886年、山城国(現在の京都府南部)石清水八幡宮の御分霊を勧請し祀られたと伝わっています。

勧請とは簡単に言えば、神様をお招きするということです。

 

宇佐神宮が近くにあるのに、なぜ京都の石清水八幡宮からお招きしたのか。

同じ疑問を持つ方もいらっしゃるほど、その距離はかけ離れています。

 

京都に石清水八幡神社の創建は平安時代初め、清和天皇の貞観元(859)年です。

南都大安寺の僧・行教和尚が宇佐八幡宮にこもった時、八幡大神から託宣を受けたことが、創建の理由のようです。

(※宇佐神宮から神様をお招きしたわけではない。)

 

その京都の石清水八幡宮のWebサイトで見つけた社紋の向きが、伊美崎社と同じでした。

石清水八幡宮の社紋は公式なWebサイトの写真によると、「流れ左三つ巴紋」と記載されていたものの、ひとつだけ右三つ巴紋と同じく尻尾が右に流れているのでした。
右三つ巴紋になっている理由はこちらのサイトによると、「益々の発展を祈るためにあえて未完成の箇所を作った」とありました。

 

豊前市 石清水八幡神社 石碑に右三つ巴紋
豊前市 石清水八幡神社 石碑に右三つ巴紋

では京都の石清水八幡神社は左三つ巴紋で正しく、伊美崎社の右三つ巴紋とは関係ないかと思えば、豊前市の石清水八幡神社の石碑に刻まれた社紋は右三つ巴紋でした。

豊前市の石清水八幡神社は、創建がいつか不明な歴史ある神社です。(貞観3年(西暦861年)の八幡大神の御神託が祭祀の始まりとされていますが、神社内の由緒書きの冒頭に「何れの代に御鎮座と云ふ事を知らず」と記載があり、それより以前から何らかの祭祀が行われていた可能性を示唆しています。
近隣には古墳時代か平安時代にあったと思われる久路土芝掛遺跡・久路土高松遺跡などがあったようで、かなり古くから人がよく住んでいたエリアと言えます。
ただし神社名の由来は「境内から石清水が出てきた」という情報がありましたので、京都の岩清水との関連性を示すものはありません。

 

そのほか石清水八幡神社ではありませんが、福岡県うきは市浮羽町の隈上正八幡宮の屋根には右三つ巴紋、福岡県うきは市吉井町の宮田竈門神社の屋根に右三つ巴紋があるという情報もネットで見つけました。

調べた結果、右三つ巴紋に何の意味があるかはっきりしませんが、ここでは「巴紋」=「八幡神社と関わり?」とだけに意識をとどめることにします。

とりあえず巴紋の向きの問題は別にして、次に伊美の町の名前の由来について調べてみました。

 

大分県 国東半島の北部に伊美(いみ)というめずらしい名前の地区があります。この語源について『国東半島 北浦部の地名を歩く(廣末九州男著)』に詳しい解説が紹介されていました。

 

神を祀る特別な場所を「いみち(忌み地、斎地)」と呼び、ここから伊美(大分県国東市国見町)の地名がつけられました。

もともと「いみ」という単語は”心身を清浄に保ち、けがれを避けて慎むこと”ということ参照、”神への祭事を司ること”を意味し、後世にはその祭事を司る一族や場所をさすこともありました(参照:『国東半島 北浦部の地名を歩く(廣末九州男著)』P.20)

日々の”楽しい”をみつけるブログから引用

 伊美町は「神を祀る特別な場所」。
宇佐八幡神の化身と言われる仁聞菩薩が開いた山岳宗教「六郷満山」が栄えた国東半島の北端近く、縄文時代から黒曜石が発掘されていた姫島の対岸、古代の主要な交通路だった瀬戸内海の九州側の岬…
たしかに特別な場所であると、納得できるものでした。

伊美町の対岸に姫島があり、伊美崎社と伊美別宮社と「伊美」の地名が付く2つの神社。

 

伊美崎社の御祭神の話に戻りますと「伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫尊」。
これらの三柱は、本来、白山神社の御祭神であり、八幡神社の御祭神ではありません。

八幡神の御祭神、大元の宇佐神宮では八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后(応神天皇の母)です。
一方、白山神社の御祭神といえば「菊理姫尊」です。(白山神社の他の御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊)
神を祀る特別な場所「伊美」の岬にあり、菊理媛を祀る伊美崎社の社紋が、白山神社の紋ではなく、八幡神社でよく使われる三つ巴紋。

ただし向きは宇佐神宮や多くの八幡神社とは逆の「右三つ巴紋」。


それについて「もしかしたら」が始まりました。

論文が示していた宇佐神宮の真の御祭神

宇佐神宮上宮本殿 中央の二之御殿が一番立派
宇佐神宮上宮本殿 中央の二之御殿が一番立派

豊前エリアの歴史好きの方ならよくご存知かと思いますが、宇佐神宮には多くの謎があると言われています。

その一つが「本来の御祭神は八幡神(応神天皇)ではなく別の神では?」という説です。

宇佐神宮上宮の本殿は一之御殿、二之御殿、三之御殿と並んでいて、順に八幡大神、比売大神、神功皇后が祀られています。

八幡神社の総本山なのですが、なぜか二之御殿の比売大神が一番立派です。

「なぜ二之御殿」が明らかに特別扱いなのか?その理由は触れられていませんが、一番立派な二之御殿に祀られている神が、本来の御祭神ではないかと言われるのも納得です。

 

宇佐神宮の公式ホームページによれば、二之御殿に祀られている比売大神は宗像三女神であることが伝えられていますが、宇佐神宮に祀られている「比売大神」は元々は宗像三女神ではなく、他の神ではないかという論文もあります。(以下論文より引用)

 

湍津姫(以下タギツ)は、瀬織津姫(以下セオリツ)が『日本書紀』成立以降一部改名したものと推定される。セオリツは、宇佐神宮が当初から祭っていた女神比咩神とおそらく同一神で、現在ヒメと読まれている比咩はもとその字音通りヒミと発音されていたと思われ、弥生の女王卑弥呼への信仰に基づくと推測される。

宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代

 

―宗像神信仰の研究(5)― 
から引用

 

宗像三女神について「筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられており、八幡様のあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされています。」と宇佐神宮の公式ホームページに書かれているように、八幡神があらわれる以前の古い神がいて、その神が三女神ではなく他の神だった、そしてその神とは。

「宇佐神宮が当初から祭っていた女神比咩神とおそらく同一神」であり「弥生の女王卑弥呼」であると論文に書かれています。

セオリツ(瀬織津姫)=宇佐神宮の元の地主神「比咩神」=「卑弥呼」。

瀬織津姫については後の項で述べますが、その前に「八幡神」についてもお伝えします。

八幡神とは

宇佐八幡宮の「八幡神」は、辛島氏の辛国神(渡来神)と応神天皇の神霊(大和政権神)を僧法蓮が融合して誕生した新しい神という説があります。

元々この地域で勢力を持っていた宇佐國造氏が崇拝する神ではなく、新しく生まれた神であると。
詳細は別記事「『宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か』より宇佐八幡の形成と信仰の歴史まとめ」よりご覧ください。

隠された御祭神、消された女神「瀬織津姫」

福岡県築上郡上毛町 牛頭天王公園内 八坂神社内の木札に「瀬織津姫」の名前
福岡県築上郡上毛町 牛頭天王公園内 八坂神社内の木札に「瀬織津姫」の名前

 

前の項で論文に書かれていたとお伝えした「瀬織津姫」という御祭神を知らない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

瀬織津姫は神道の祭祀で唱えられる「大祓詞」に登場する神であり、天照大神の荒魂として伊勢神宮の別宮に祀られています。

天照大神は皇室の始祖神として伊勢神宮に祀られ、日本の公的な歴史書である「日本書紀」と「古事記」でも伝えられています。


その天照大神の荒魂が瀬織津姫です。

荒魂とは、神道の概念で神の魂が持つ2つの側面のこと、簡単に言えば、穏やかな面と荒ぶる面。
瀬織津姫は天皇の祖神として公に認められている天照大神の、もう一つの顔であるということでしょう。

神道にとっても、皇室にとっても重要な神様…と言えますよね、なのになぜか古事記や日本書紀には天照大神の荒魂とされる「瀬織津姫」について記されていません。
(天照大神や宗像三女神は古事記・日本書記に記されています。)

 

自分が豊前市に移住した時に、宇佐神宮の御祭神の謎よりも早く遭遇したのが「瀬織津姫」の名前でした。

福岡県築上郡上毛町の牛頭天王公園内にある八坂神社に行った際、「瀬織津姫」と書かれた札がありました。

なぜそこに瀬織津姫と書かれているのかと疑問に思う以前に、それまでにほとんど見た覚えがないから珍しいと感じたことをよく覚えています。

 

「存在を隠された」「消された」ともいわれている女神の名前ですが、前述した論文では瀬織津姫はイコール卑弥呼ということになります。

 

そもそも日本の「神様」って?ご先祖様だった可能性

日本最古の歴史書といえば「日本書記」に「古事記」です。

古事記に書かれた日本の神話の具体的な内容、ご存知でしょうか。

神様が日本の国土を産むとか、生まれた子の首を切り落とすとか、遺体から他の神様が沢山生まれたりと、かなりの荒唐無稽ぶりです。

 

その無茶苦茶とも思える内容は、勝者として歴史書の制作を依頼した側(藤原不比等)にとって不都合な事実を消した歴史書にしようとしたことと、それに抗う書き手との攻防戦の結果という説があります。
書き手はでき得る限り、本当の歴史を残そうとしたので、内容としては無茶苦茶ながらも、ゼロベースではなく、何らかの事実を反映していると言われています。

もちろんこのような複雑なストーリーの神話を、持統や『書紀』撰上時の元正天皇が直接発案したはずはない。

ましてや、実際に執筆に当たった下級官僚が、自らの裁量で創作できたはずはない。

知謀に長けた『書紀』の最終的な編纂者が、皇室の内意あるいは示唆を受けてこのような筋書きを描き、執筆者たちに命じたとしか考えられない。

その実力者とは、当時の最高権力者右大臣藤原不比等と考えられる。

不比等は、『書紀』編纂の最終段階において、人臣の中では編纂者の筆頭であった

宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代

―宗像神信仰の研究(5)― 

 

から引用

 

 その前提のうえで、大元出版の書籍「古事記の編集室: 安万侶と人麿たち」を読むと、頷けるところがあるのではないでしょうか。

出雲王家末裔に伝わっている伝承ですが、書籍のなかで出雲と遠く離れた宇佐(家)の伝承と照らし合わせ、その内容が一致することを引き合いに出しており、伝承とはいえ、真実味を感じる方は多いのではないかと思います。

 

大元出版の別の書籍「出雲王国とヤマト政権」を読むと、大国主、少名彦命、宗像三女神などの神様が実は実際にいた人物であったという伝承も伝えられていました。

もともとはご先祖を神として、後に神社に祀るようになったのであれば(それ以前は自然や古墳)、同じ御祭神の神社が全国に広がっていたのも納得ができるものです。
ご先祖様が同じ一族が、日本各地に広がっていけば、同じご先祖様を祀る神社も増えるというわけです。

文献と考古学を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか。
宗像の謎の核心は、宗像大社とその祭る神にある。
日本の多くの神々が、前史時代に起源を持つ。
宗像神もそうであるように思われる。
日本古代の神信仰は長い時の間に多くの変遷を経てきたが、人々は原則として一度祭った神を捨て去ることはしなかった。
神のたたりを恐れたためであろう。
このため、その神を祭る神社がなくなっても、一度祭られた神の名は、多くの場合他の神社に合祀されるなどして残っている。

筆者の実感としては、その遺存率は考古遺物より歴史史料より遥かに高いと思われる。


宗像神を祭る神社の全国分布とその解析
ー宗像神信仰の研究(1)ー
から引用

論文でも伝えられている「たたり」。

 

前述した大元出版の書籍「出雲王国とヤマト政権」で伝えられていたのは、「火明(ホアカリ)=饒速日(ニギハヤヒ)=スサノオ」は秦の始皇帝のための不老不死の妙薬を探しに3,000人の童男童女と多くの技術者を従えて日本にやってきた徐福であったということでした。

その徐福が最初に到着したのは出雲であり、受け入れてくれた出雲王国の王と副王、大国主と事代主(少名彦)は徐福一派の謀略によって亡き者にされたといいます。

(書籍では徐福の二人目の妻は市杵島姫で、徐福と市杵島姫は物部氏の祖になったと述べています。)

大国主や事代主を祭る神社が多い理由になるかもしれません。

 

たとえば天満宮に祀らえている学問の神様「菅原道真」公は明確に「たたり」を恐れて神として祭られた「人」でした。

道真公を恐れた政敵に陥れられ太宰府に流された菅原道真公が怨霊となり、祟りを恐れる人たちが怒りを鎮めるために神として祀りました。

 

大元出版の書籍「出雲王国とヤマト政権」とは別に同会社から出版された 勝友彦著「親魏倭王の都」では、卑弥呼とはかつて九州東部に勢力を誇った豊の国(豊前・豊後に別れる前の国)の女王であることが語られていました。

権力者にとって都合が悪い史実を隠すために、竜宮の乙姫(豊玉姫)の神話にされたのだと。

 

たしかに豊の国の名残は現在も各地に残り、「豊」が付く御祭神や神社、地名が存在しています。

また宇佐市の古墳がある神社「乙咩神社」はかつて「乙比咩社」と呼ばれていたようです。

天照大神の荒魂「瀬織津姫」と別名

瀬織津姫が祀られる有名な神社といえば、伊勢神宮の別宮です。

伊勢神宮の主祭神「天照大神」の荒魂として祀られています。

「瀬織津姫」は罪や穢を川の水で清める神と言われて、水の神、滝の神、龍神、白龍、弁財天と習合しているなどの情報もありました。

 

宗像神、特にイチキシマは近世に弁才天(弁財天・弁天)と習合した神社が多いが、他神と習合した場合も

あり、一般にそれ以前から祭られていた神(主に女神)に習合したものと考えられる。
青森県などでは江戸期に弁財天と呼ばれた神社がもともと胸肩神社の名を持っていたことが記録されている(第1報)。

明治初頭に習合が外されたとき、宗像神の場合多くが三女神を祭る神社となったようである。

 

宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代

―宗像神信仰の研究(5)― 

から引用

移住して神仏習合が残る国東半島によく立ち寄るようになると、瀬織津姫が別名で祀られている説があることを知ります。

例えば豊後高田市黒土の無動寺鎮守「身濯神社」に祀られている黄泉の穢れから生まれた日本神話の災厄の神「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」です。

瀬織津姫が穢れを祓う神、八十枉津日神は穢から生まれた神と対局にあるようですが、不動明王は瀬織津姫が習合した姿のひとつであるとも言われています。

(もうひとつは十一面観音。このあたりは菊池展明著「円空と瀬織津姫」をご覧になると、説の根拠を知ることができます。)

不動明王は無動寺の御本尊。

国東半島でも栄えた山岳信仰において、不動明王は重要な仏です。

不動明王といえば、山伏が修行する修験道や山岳信仰の滝によく祀られています。

 

修験道や山岳信仰は明治維新が起こる前までは、日本人にとって身近な信仰でした。

ちょうどコロナが流行していた時期、オンラインセミナーで有名な羽黒山伏の星野先達の背景に掲げられていた掛け軸の字が「瀬織津姫」と書かれていたことも記憶によく残っています。
その時は、なぜ「瀬織津姫」なのだろうと思ったものの、そこから先がつながりませんでした。

なお、瀬織津姫の名前が違う御祭神に変えられた、もしくは消された時期は飛鳥時代と、明治維新だったという情報があります。

明治維新でそれまで神仏習合が許されてきた日本の信仰は一変しました。

神道と仏教は分けられ、多くの寺が神道へ特化することを求められたといいます。

その理由は、仏教はもともと日本のものではないから、武士から天皇へと王権復古されるからでした。

瀬織津姫がその名前を変えられたということは、その辺りが関わっている可能性は考えられるのかもしれません。

貴船神社の本当の御祭神とは?

豊前市に移住して遭遇した謎がもうひとつ、それは貴船神社の多さでした。
(↑上記の地図の青いランドマークが貴船神社です。ネットで簡単に調べただけでこの数)

総本社がある京都の貴船神社の数のほうが少ないのです。


なぜ中津市・宇佐市にこれほど集中しているのか。
数が多いエリアこそ、本拠地ではないのかと不思議に思いました。

 

高龗神と闇龗神は呼び方は違えど同じ存在で、龗神(おかみのかみ)は貴船神社の御祭神であると言われています。

 

貴船神=瀬織津姫であると述べている神社がありました。

福岡県の海沿いにある福津市の波折神社です。

福岡県豊前市の石清水神社に合祀された貴船神社や島根県の奥出雲町の小馬木八幡宮の摂社 貴布祢大明神にも、そう伝えられていたという情報がありました。

 

大学教授による研究も報告されています。
この記事で引用してきた論文を書いた静岡理工科大学 名誉教授 矢田浩氏によるものです。

 

その論文のひとつのなかで、龗神(木船神=貴船神)とは宇佐の女神、卑弥呼(比咩神(後セオリツ))であったことが様々な数値の関係性を見て推測されています。

たとえ史実に書かれていないことでも、神社の場所や数、御祭神の種類などから、関係性を調べることができるようです。

 

実際に現在でも福岡県福津市の波折神社の主祭神は「瀬織津姫」であり、瀬織津姫イコール貴船神であることがはっきりと公式ホームページでも伝えられています。

さきに豊前に渡来人が多く、そこで八幡信仰の基盤となった比咩神が祭られたことを述べたが、豊前

はまた既報[8]で見たようにオカミ神が集中して祭られている「オカミベルト」の中心である。

それではオカミ神と比咩神(後セオリツ)とはどのような関係があるのだろうか。

その手がかりが、ムナカタにある。

前報で見たように福津市津屋崎の波折神社の主祭神筆頭がセオリツであるが、この神社の縁起を文政七年(1824)福岡藩の儒者青柳種信が書いている。

その冒頭に、「右当社に祭るところの神は瀬織津姫大神 また木船神とも称え申す 住吉大神志賀大神にておわしま

す(以下略)」と書かれている(『津屋崎町史資料編上』の解読文[29]による)。

筑前三風土記の一つ『筑前国続風土記拾遺』を著した種信は福岡藩を代表する国学者で、当時の学者の間では広くその見識が認められていた。

当時国学者の間では、セオリツと木船(貴船)神(=オカミ神)が同神と考えられていたらしいのである。

一方、どちらが先にあったのかを示すのは、富山県砺波市 と な み し 庄川町 しょうがわまち に近接して鎮座する雄 お 神 かみ 神社と 元雄神神社である。前者の主祭神はタカオカミ(高龗)・クラオカミ(闇龗)でこれにセオリツが配祠されて おり、後者は逆にセオリツが主祭神で、タカオカミが配祠となっている。

「雄神」とは、オカミ神のことであ ることは言うまでもない。

難しい字の龗を雄神などと書くのは、神名としても、社名としても、他にも多くの 52 例がある。

このような場合「元」の付いている方がもともとあった古社を意味するので、これらの祭神が正 しく伝承されているのであれば、セオリツ→オカミと変わったことになる。

 

宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼

[付編]魏使の邪馬台国への行程

-宗像神信仰の研究(4)-

から引用

御祭神について

波折神社は、瀬織津姫大神(または貴船神とも称す)、住吉大神、志賀大神の三神を祭神としています。

瀬織津姫大神は、罪や穢れを祓い去る祓戸の神様、住吉大神は、航海安全・豊漁・国家守護の神様、志賀大神は、開運の神様で、津屋崎の氏神として地域の方々が永年守ってまいりました。

 

波折神社公式ホームページから引用

貴船神社ベルトの空白地帯に国東半島・六郷満山

上記の貴船神社マップの拡大
上記の貴船神社マップの拡大

上の地図で、貴船神社が集中している福岡県と大分県のエリアを見ると、「タコの頭」に似ていると言われる国東半島に「貴船神社が無い」エリアがあることに気付きました。

他の貴船神社が密集しているからこそ、ぽっかりとした空間が気になります。

そしてこの空間には神仏習合の原点となる山岳宗教、「六郷満山」の寺院がパズルのピースのようにはまり込むように見えます。

このことは、六郷満山の寺院と一緒に並ぶ六所権現、六所神社、身灌神社に祀られる水の神は、貴船神社の御祭神と同じ存在であることを暗に示している?…と個人的に考えてしまう理由のひとつでもあります。

「伊美崎社 菊理媛命」と比咩大神

京都の石清水八幡宮の御祭神は「応神天皇」「神功皇后」「比咩大神」です。
宇佐神宮の御祭神と一見同じですが、宇佐神宮は「比売大神」で、石清水八幡宮の御祭神は「比咩大神」と二番目の字が異なります。
これまで紹介してきた論文「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼」でも、もともとは「比咩」だったところが、比賣(比売)に変えられたのではないか、と述べられていました。

このように様々な系統の渡来系氏族が共通して比咩神を祭っているのは、「比咩」が多くの人々の記

憶に残っていた偉大な渡来系人物の神格化だからではないだろうか。
そして「比咩」という表記に対する強いこだわりは、この表記が本来「ヒメ」とは違った読み方をされていたからではないかと思われる。
「咩」という珍しい字は、いずれの漢和辞典にも羊の鳴き声を表す字とあり、他の意味はない。
その発音は、「ミ」または「ビ」であって、「メ」という音は記されていない。
すなわち、宇佐にもともと祭られていた女神は、「ヒミ」という名であったのではないか。

この名は、直ちに邪馬台国の女王卑弥呼を連想させる。古代中国語の権威白川静によると、
「呼」はもと「乎」と同じで、神を呼ぶときの強く発音される声である[27]。日韓古代語の専門家金思燁は、「『呼』は、古代の新羅人が男女の名前に添尾される美称、尊称」であるという[28]。いずれにせよ、卑弥呼の固有名は「ヒミ」であって、尊敬の意を込めて「ヒミコ!」と呼んでいたのを、そのまま魏使が記録したのではないか。

 

論文「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼」p.49から引用

それにしても古い女神の尊称に「比咩」の字が好んで当てられるのはなぜだろうか。宇佐神宮や香春

の女神は、比売と書かれることも多いが、本来は比咩と書かれた。この2女神が、いずれも渡来系の

人々が祭った神であることが注目される。

前報[9]で紹介した大祓詞中のセオリツ以下の祓戸四神(注 9)の他の二女神も、平安時代の『延喜式』

には比咩と書かれていた。『延喜式神名帳』(既報[7]参照)で社名から女神の名を全て拾い出すと、「比

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賣」が 60 例と圧倒的に優勢であるが、「比咩」も 29 例ある。しかし「姫」は 10 例しかなく、まだ十分普及

していなかったらしい。あとは「比女」が 7 例、「日女」が 4 例、「日賣」と「火賣」が各 1 例となっている。そ

の分布を見ると、畿内ではほとんどが比賣であり、比咩は全くない。比咩は、能登に 12 社、伊豆に 10 社

と特定の地方に集中し、いずれも畿内から離れたところにある。比咩が畿内を中心に比賣(比売)に変

えられたように見える。

 

論文「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼」p.44から引用

比咩神を祭る阿蘇系の神社は、全国 95 社のうち 92 社が熊本県にある。『延喜式神名帳』には健磐龍命(たけいわたつのみこと)神社とならんで阿蘇比咩神社が記されているが、この表記または阿蘇津比咩と書かれる社は 12 社と少なく、単比咩が 36 社とより多い。
比咩(大)神が本来の神だったのではないか。
一社に比咩神の数が多いのが特徴で、5 神が 21 社もあり、6 神も 2 社ある。単比咩以外はいわゆる阿蘇一二神の中の他の四女神、すなわち比咩御子神、若比咩神、新比咩神、弥比咩神の一神以上が主祭神となっている。
固有名詞が附いていないこれらの神名は、単比咩から派生したと考えることができよう。

次ぎに多いのが中臣の祖神天兒屋根命(あめのこやねのみこと)(以下コヤネ)を主神とする春日系の 79 社で、これは春日大社のある奈良県に 19 社と多い。コヤネの元社枚岡(ひらおか)神社のある大阪府にも、15 社ある。
春日大社と枚岡神社の女神は現在いずれも「比売」であるが、地元の系列社の多くが比咩神を祭っていることから見

て、この「比売」はもともと「比咩」であったと推測される。
春日系の場合は、八幡系以上に単比咩を祭神とする傾向が強く、合祀された他神のある場合を除き、比咩の前に別の修飾語が付く女神は全く見られない。

以上の比咩神の祭られ方から、中臣氏や渡来系氏族にとって、「比咩」は本来特定の神を指す固有名詞であったことが推測される。

 

論文「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼」p.46から引用

 

宇佐神宮が近くにあったにも関わらず、京都の石清水八幡神社からわざわざ勧請されて創建された、伊美別宮社の話に戻ると、京都の石清水八幡神社は「比咩大神」が御祭神として残されていたということでしょうか。

同じ「ひめおおかみ」でも宇佐神宮ではなく、石清水八幡神社の比咩大神でなければいけなかった理由があった?

 

こんな前提があり、冒頭の「もしかしたら」「伊美崎社 菊理媛命」とは、京都の石清水八幡宮の御祭神が「白山比咩大神(菊理媛)」であることを示しているのではないかと思い、出た言葉です。

 

菊理媛は白山神社の御祭神です。

公式ホームページによれば、菊理媛命は白山比咩大神。

日本書記にも登場する女神です。

「穢れを祓う神・厄を祓う神」「名前の『くくり』は『括り』であり、縁結びまたは糸つむぎに関わる。または、「潜り」で禊に必要な水に関わる」と、特に穢れ払いや厄払いついては瀬織津姫と、水については龗神と共通するものがあります。

 

豊前市 下川底 白山神社の大楠
豊前市 下川底 白山神社の大楠

豊前市下川底の白山神社が、比売大神が祀られる宇佐神宮第二殿の定期的な造営のための重要な材料調達場所に指定されていたことも、宇佐神宮と白山神社に何かしらの関わりがあるのかと以前から気になっていました。

つまり宇佐神宮の御祭神である「ひめおおかみ」(豊玉姫=貴船神=瀬織津姫)と白山神社の菊理媛命に何らかの関連があるのかと考えていたので、「伊美崎社 菊理媛命」に、すなわち卑弥呼=豊玉姫=貴船神=瀬織津姫=菊理媛であるという可能性を感じ、「もしかしたら」と思ったわけです。

伊美崎社はとても小さな社なので、置かれた右三つ巴紋の賽銭箱が、どこか他の神社のもの(おさがり的な)を使っていた可能性もあるとは思いますが、それでも伊美という地名を考慮すると、関連性はゼロでは無さそうです。

右三つ巴紋や神社仏閣は謎解きの鍵となるか

自分の関心は、「貴船神である高龗神(闇龗神)」「瀬織津姫」「比咩大神」「菊理媛」「豊玉姫」、この記事ではあまり触れていませんが、ほかにも水の女神として「ミズハノメノカミ(罔象女神・弥都波能売神)」が結局のところ、「卑弥呼」やその関係者を指しているのかも、というところにありました。

 

ミズハノメノカミが瀬織津姫であるとはっきり伝えている神社の情報を見つけたので、別の記事「高龗神と闇龗神は一対の龍女神、市杵島姫命と瀬織津姫(ミズハノメノカミ)。宮崎県の古社の伝承」にまとめています。

北部九州エリアの神社仏閣を巡って色々調べているうちに、共通点や違和感を感じ、調べていくうちに同じような疑問を感じる方が多いことを書籍や記事などで知りました。

 

ただし専門家ではない自分には明確な確証はありませんでした。

 

たとえ歴史の専門家であっても、宇佐神宮にまつわる八幡神の成立や、卑弥呼がいたのかいないのか、意見が分かれたり、文献が無い時代のことだから立証しようもないと、はっきり断定できる人はいないそうです。

だから今回この記事で紹介した論文の著者は史書ではなく、実際に残っている神社(御祭神)などから統計学やデータによる関連性を浮かび上がらせ、大胆とも言われる推測を入れながら、今まで分かりようがなかった歴史を証明しようとされているのではないのかと。

 

論文の内容に異議を唱える方はいらっしゃるようですが、真偽は分からないにしても現地に足を運び、見て調べて色々想像する余地があるというのは、自分のような個人の歴史愛好家にとっては面白いテーマなのではと思います。

 

前述した論文で「日本の古代神信仰は長い時の間に多くの変遷を経てきたが、人々は原則として一度祭った神を捨て去ることをしなかった。神のたたりをおそれたためである」という記述のとおり、存在そのものを消し去ることはなかった。

論文では、だから文献の欠如している「空白の4世紀」と呼ばれる時期が謎であるけれど、「文献と考古学をの隙間を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか」と訴えていました。

 

古事記にも日本書紀にも書かれていないのに、その時代からあった史跡もこのエリアには結構残っています。

 福岡県行橋市の神籠石(こうごいし)や福岡県の東の端っこ、上毛町の唐原城がまさにそれです。

 

これまで読んで来た本、論文、それに実際に目で見た史跡から「古事記・日本書紀が全てってわけじゃ無さそうだ」と、あれやこれや謎解きのように想像しては楽しんでいるのかもしれません。

私達の先祖はすごい謎を隠し、そして受け継いで守ってきたのかもしれないと。

 

今回調べてみた結果、右三つ巴紋の意味や違いはよく分かりませんでした。

しかしこの先、右三つ巴紋の神社を見つけ、実際に足を運んでいき情報を得ていけば、また何か分かるかもしれません。

もし、右三つ巴紋や地域の神社仏閣が、隠された歴史を紐解く鍵になっているのだとしたら、本当に面白いですよね。

この記事で書かれた内容については様々な論があります。

おそらく内容について異論がある方はいらっしゃるでしょうし、他の情報を持っている方もいらっしゃることでしょう。

各々が分かっていることがネット上にアップされていけば、他の誰かの情報につながっていく…なんて連鎖が起きてこれまで埋もれていた何かが分かる、なんて可能性がゼロでなければと発信しています。
GoogleやAIが、これまで認知できなかった情報を拾い上げてくれる時代です。


日本の地方社会の人口減少によって、神社仏閣史跡の維持が年々厳しくなっていると聞きます。

せっかくこの時代まで残っているのだから、今のうちにネットに残していきたい。

何かを伝えようとしているかのような、歴史のあと。

この活動が実を結ぶかどうは不明ですが、可能性がわずかでもあれば、それらが積み重なり、つながって、いつか「こういうことだったんですよ」ということが分かればいいなと思っています。

国東半島にある宇佐神宮の5つの別宮にもヒント?

この記事をまとめるにあたり調べていると、国東半島内に宇佐神宮の別宮が全部で5つあったことを知りました。

 

別宮八幡社

養老年間(717年〜724年)に国東半島に設けたとされる、宇佐神宮の5つの別宮の一つで、現存する4つの別宮の中でも随一の規模を誇ります。

毎年7月29日、30日に行われる「オンバレ」と呼ばれる御田植え祭は有名な行事となっているそうです。

 

豊後高田市公式観光サイトから引用

 

別宮は全部で5つあったようです。

そのうちの1つが現存している豊後高田市香々地の別宮八幡社であるなら、他の別宮がどこだったのかが、ネットで調べてもはっきりと書いているサイトが見つかりません。

ヒントは養老年間(717年〜724年)に国東半島に設けられた「別宮」であることでしょうか。

宇佐神宮が現在の地に創建されたのは725年ですが、それ以前、しかも直前の時期に別宮が設けられたことになりますね。

別宮は伊美別宮も含まれるのか、そして宇佐八幡宮からの勧請なのか、それとも石清水八幡神社からなのか、それともそれ以外からか。

なぜ養老年間であったのか。
養老年間には宇佐神宮の最古の祭礼「放生会」が始まった時期です。

 

宇佐神宮の書籍を読み直すか、歴史博物館に行くなどしてもよいのかもしれません。

また分かれば追記していきます。

菊理媛(くくりひめ)の「くく」は句句廼馳の神から?

白山神社の御祭神である菊理媛(くくりひめ)の「くく」は木の祖神とされる句句廼馳(くくのち)の神から、という情報を見かけました。
くくのちのかみと、菊理媛にも何かの関係を示しているのか?

貴船神の表記が「木船神」でもあるのなら。
こちらもまた気になるテーマです。

まだ調査中ですが、卑弥呼(貴船神)のルーツが歴史から消された要素のひとつではないかと考えているからです。

右三つ巴紋がある神社まとめ

最後になりましたが、タイトルの右三つ巴紋がある神社を以下にリストアップします。

(※右三つ巴紋と左三つ巴紋が混在している神社も含みます)
行ったことがない神社についてはGoogleMapで登録されていた画像を参照しています。

キーワード検索で「右三つ巴 神社」で検索してもあまりヒットしないので、まずは手探りで見つけた右三つ巴紋がある神社のデータを集めたいと思います。

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