福岡県の東の端っこエリアの豊前市に移住して以来、大分県中津市は大変身近な場所になりました。
身近でありながら、知らない町。
人の性なのか、住んでいる場所を少し離れたらそこは旅先になるのです。
車で15分だから、思い立てばすぐに行けるのです。

散策がてら川沿いに行って古代の石垣を眺める

中津城のすぐそばには山国川が流れています。
晴れた日は本当に気持ちのよい散歩道で、地元の人もよく歩いていそうに見えました。
金比羅宮が目印

写真右側の建物は「金毘羅宮」です。
海上交通の神様といわれていますが、実は古くは風と雲の神様ともいわれていた金毘羅様。
その下側エリアの石垣に、古代七世紀の山城「唐原山城」から持ち出された石が用いられているというのです。
古代七世紀の山城「唐原山城」から持ち出された石

川沿いの石垣には四角く加工された石が多用されています。これは、川上の福岡県上毛町にある古代(7世紀)の遺跡「唐原山城(とうばるやまじろ)」(国指定史跡、旧:唐原神籠石)から持ちだされた石で、直方体の一辺が断面L字型に削られているのが特徴です。黒田時代の石垣は通常「未加工の自然石」を用いますが、黒田は古代に加工された石を持ち込んで石垣を造りました。(写真赤線部分)
四角に加工された石垣にはさまれた未加工の自然石の石垣(写真青線部分)は細川時代には造られていたと思われます。 慶長5年(1600)に入国した細川は、中津城の改修工事をはじめます。
元和6年(1620)には、22の櫓と8つの門が設けられており、この場所には鉄門が造られました。鉄門はトンネル状になっており、門の中の階段を登ると本丸内に通じていました。
鉄門とはその名の通り扉の表面に鉄板を貼り付けた強固な門で、幕末の絵図にも鉄板をはった扉が描かれています。門の上には長屋状の櫓が建てられていました。現在、鉄門跡は埋められ、石でふさがれています。
中津市教育委員会
案内板から引用
四角く加工された石の方が古い石です。
古代の遺跡である唐原山城(唐原神籠石)から、黒田官兵衛が持ち出したとされる石ですが、古代史好きからすると「おいおい、貴重な遺跡になんてことを…」と言いたくなってしまいます。

しかし古代の遺跡に使われていた貴重な石を、黒田官兵衛が中津城の石垣に使ったおかげで、まだ目に触れるようになったということですよね。
唐原山城は何の目的で造られたのか分からない謎が多い山城といわれているそうですが、もっと注目されてほしいと思います。
それはそれとして、中津城のこのエリアは人が少なく、川に向かっての景色もよく、のんびり過ごすのにはぴったりなスポットです。
私も定期的に訪れたくなる場所です。
中津城近くには古民家カフェもや図書館もあるので、ゆったり過ごすにはおすすめですよ。
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