大分県の中津城で悲劇的な最期を遂げた戦国武将、宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)。
その祖先を辿ると、日本の歴史を語る上で欠かせない一大勢力、藤原氏に行き着きます。
しかし、この藤原氏、元々は「中臣氏(なかとみうじ)」と呼ばれていました。
福岡県で見つけた石灯籠の謎から、藤原氏と中津城に行きつき、何か関係があったのか調べていたら、中臣氏が、かつて豊前国(現在の福岡県東部)の「仲津郡(なかつぐん)」に深い縁を持っていたという情報を見つけました。
中津城の「中津」と、古代の「仲津郡」——この響きの一致は、単なる偶然なのでしょうか?
この記事では、中臣氏、後の藤原氏が、もしかしたらこの中津の地に、彼らのルーツを秘めていたのではないかという可能性を考察していきます。
中津と「中臣」の奇妙な一致
現在の中津市を含む、古代の豊前国には「仲津郡」という郡が存在していたようです。
コトバンクの記述によると、仲津郡は現在の行橋市東部、京都郡豊津町・犀川町に相当する地域で、「豊後国風土記」には、豊国の祖である菟名手(うなで)がこの仲津郡の「中臣村」に至った際に祥瑞(吉祥)が現れたと記されています。
注目すべきは、この「中臣村」です。
日本の歴史において「中臣」といえば、飛鳥時代から奈良時代にかけて、祭祀を司り、政治の中枢で活躍した中臣氏を指します。
彼らは後に藤原氏となり、平安時代には貴族社会の頂点に君臨しました。
中津の地名と、古代の「仲津郡」、そしてそこに存在したとされる「中臣村」。
この三つの「ナカツ/ナカトミ」という響きの繋がりは、単なる偶然なのでしょうか。
藤原氏の源流である中臣氏が、この豊前の地に何らかの深い関わりを持っていた可能性はないのでしょうか。
中臣氏と豊前:古代の豪族たちの思惑
「大宝二年(七〇二)の豊前国仲津郡丁里戸籍」や「続日本紀」には、この地域の有力者として秦部や膳(かしわで)氏などの名が記されています。
特に膳氏は、大宰府管内における有力な豪族であったことがうかがえます。
一方で、中臣氏が中央でその地位を確立していく中で、地方の有力氏族とどのような関係を築いていたのかは、多くの謎に包まれています。
しかし、「中臣村」という地名が残されていることは、単なる偶然の符合ではないように思いました。
もしかすると、中臣氏の源流の一部がこの地にあった、あるいは彼らがこの地を重要な祭祀の場、あるいは勢力基盤としていたのかもしれません。
なぜなら、中臣氏は祭祀を司る氏族であり、その拠点には神聖な意味合いが込められるのが常だからです。
また、七世紀末に建立された上坂廃寺(現豊津町)で百済系の瓦が見つかっていることから、この地域が渡来人との交流が盛んであったことも示唆されます。
渡来人がもたらした知識や技術が、後の藤原氏の興隆に何らかの影響を与えた可能性も考えられそうです。
気になる春日灯籠
中津と中臣氏、そして藤原氏の繋がり。
この地が、日本の歴史を動かした一大勢力のルーツと深く関わっていた可能性は、単なる偶然では片付けられない奥深さを秘めています。
しかし、藤原氏がこの地と結びつく痕跡は、地名だけではありません。

福岡県で見つけた春日神社ではない古い神社に置かれていた春日灯籠。
そこに刻まれた「鹿」の姿、そして月や雲。
そのエリアの神社を調べたら、春日灯籠が「なぜここに?」と思うような神社に置かれていたことが、藤原氏と何かしらの関わりがあったのかと思う要素のひとつです。