大和朝廷に歯向かった磐井は悪者ではなく、筑紫の英雄だった。

ライターのつぶやき
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歴史の教科書に出てくる古代最大といわれる内乱「磐井の乱」。

教科書ではまるで悪者のように書かれていたと、昭和50年代生まれの自分は記憶していますが、大人になってからそれは誤った認識であることを知りました。

筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井が、新羅と結んで大和朝廷に反乱を起こしたとされますが、実は磐井は武力的な衝突ではなく平和的な交渉をのぞんでいたそうです。

しかし大陸との重要な拠点である九州を手に入れたい大和朝廷が圧力をかけ、九州勢を新羅に攻め込ませようとしました。

しかし九州の地を大切にし、同胞を大切にし、古くからの交易相手である新羅との戦いを避けようとする磐井と、強硬派の大和朝廷側との戦いであっというのが事実のようです。

えぇー、なにそれと思いました。

自分が歴史好きで色々調べていなかったら、そんなこと知らないまま今でも過ごしていたことでしょう。

まぁ歴史の世界も難しいのかなと思いますけどね。

あれだけはっきりと伝えていたのに、実は違いましたなんて伝えるのは大変なのかもしれませんが。

でもやっぱり違うなら「違う」と伝えてほしいものです。

「これは違いました」ってことを知るだけで、まずは十分じゃないかと思っています。

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この記事を書いた人

2021年に豊前市へ移住。フォトライターとして、主に福岡県の豊前市・上毛町・吉富町・築上町・みやこ町・行橋市・苅田町、および大分県の中津市・宇佐市・豊後高田市・国東市といった旧・豊の国エリアを活動範囲としています。
カメラを持ってフラッと6時間のカメラ旅に出かけ、このエリアの史跡、神楽、祭りなどを記録し、「日常を離れた歴史の世界」の魅力を発信するほか、古民家図書館を運営。

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