旧豊前エリアの史跡を巡っていたとき、宇佐市長洲にある高倉古墳と、その近くにかつて存在したという「高倉明神」が気になりました。
現在、高倉明神があった場所には八坂神社があります。

高倉社由緒
古代高倉社は瀬戸内の海を統率した神を祀る高所として崇められ畏れられていた瀬戸内を航行する海人達は海上航行をこの神に祈り許されてその安全の守護として久しく信仰されていたが中世となり神佛習合の制に従い真言密教の高倉山海龍寺と変容して内包され総称高倉明神としての信仰を得ていたが明治の神佛分離令により解体され行橋市今井の祇園社より神霊分興を受け、ここに八坂神社と改められ今日に及ぶ
東の東区平成29年5月
その由緒書きには、かつての高倉社について、「瀬戸内の海を統率した神を祀る高所として崇められ」「瀬戸内を航行する海人達は海上航行をこの神に祈り」と記されています。
さらに、中世には真言密教の「高倉山海龍寺」となり、明治の神仏分離によって解体され、八坂神社へと改められた、とあります。
ひとつの場所に、いくつもの時代の祭祀の形が重なっています。
今回は、この記録を手がかりに、高倉明神について考えてみました。
「高倉」という名前が気になった
まず、私が気になったのは「高倉」という名前です。
古代の神名には、高龗神(たかおかみ)や闇龗神(くらおかみ)という名前があります。
どちらも水や雨に関わる神として知られています。
「高倉」と「高龗・闇龗」は、音の一部に似たところがあります。
ただし、名前の音が似ているというだけで、これらを同じ信仰として結びつけることはできません。
以前の私は、こうした共通点を見つけると、すぐに「つながっているのではないか」と考えていました。
今は、まずその一致をそのまま置いておきたいと思います。
「高倉」という名前が、どのような由来を持つのか。
それ自体を、もう少し調べてみたいと思いました。
高倉明神は、海を行く人々に信仰されていた
今回、もっとも興味深かったのは、現在の八坂神社に残る由緒書きです。
そこには、古代の高倉社について、瀬戸内を航行する海人たちが海上航行の安全を祈ったことが記されています。
つまり、この場所は少なくとも現在残っている由緒書きの中では、海上交通と結びついた神を祀る場所として語られていることになります。
これは、長洲という場所を考えるうえでも興味深い記録です。
宇佐市長洲は、海に面しています。
古墳の近くにあったという高倉社が、どのような人々に、どのような目的で信仰されていたのか。
その詳細は分かりませんが「海を航行する人々が祈った神」という記録は、残しておきたいと思いました。
「海龍寺」という名前
由緒書きによれば、中世になると高倉社は真言密教の「高倉山海龍寺」となり、高倉明神としての信仰を得ていたとされています。
ここで、もう一つ気になる名前が出てきます。
海龍寺。
海と龍。
私がこれまで北部九州を歩きながら見てきたものの中にも、海、水、龍に関わる名前や祭祀があります。
だからこそ、この「海龍寺」という名前には目が留まりました。
この名前がいつ、どのような経緯で付けられたのか。そこも、今後調べてみたいところです。
明治になると、八坂神社になった
そして、由緒書きには明治期の変化についても記されています。
高倉明神は、明治の神仏分離によって「解体」され、行橋市今井の祇園社から神霊の分興を受け、八坂神社と改められた、とあります。
ここは、今回の記録の中でも特に重要なところだと思いました。
明治の神仏分離によって、この場所の祭祀の形が大きく変わった。
では、なぜ八坂神社になったのか。
なぜ今の由緒では高倉明神の記憶がこのような形で残されているのでしょうか。
高倉から、いくつもの点へ
確認できたのは、
- 高倉古墳があること
- その近くに高倉明神があったと伝えられていること
- 海上航行の守護神として信仰されたと由緒書きに記されていること
- 中世には高倉山海龍寺となったこと
- 明治の神仏分離を経て八坂神社となったこと
です。
そして、私が気になったのは、
「高倉」という名前。
「海を航行する人々が祈った」という記録。
「海龍寺」という名前。
この三つです。
これらが一つの信仰としてつながっているのか。
それとも、それぞれ別の時代に生まれたものなのか。
私にはまだ分かりませんが、ひとつの場所に残された記録を追っていくと、祭祀がずっと同じ形で続いてきたわけではないことが見えてきます。
神社の名前が変わる。
祀られ方が変わる。
神仏習合の時代を経て、また別の形になる。
その変化そのものを、まず記録しておきたいと思います。
高倉古墳と八坂神社。
ここにも、いくつかの時代の「点」が残っています。
もう少し、この場所を調べてみたいと思います。

