今回は、大分県豊後高田市の熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)にある大日如来像が、当初は薬師如来として造立された可能性が高いという説に着目し、その背景に隠された古代信仰の変遷を考察します。
この「薬師如来」というキーワードは、着目してきた牛頭天王信仰と深く結びついています。
熊野磨崖仏の大日如来は、元は「薬師如来」だった
熊野磨崖仏は、約7メートルの大日如来像と約8メートルの不動明王像が刻まれた、国内最大級の磨崖仏です。
この大日如来像は、当初薬師如来として造られた可能性が高いとされています。その後、隣に不動明王像が彫られたことで、不動明王の本地仏とされる大日如来へと見立てが変化したと考えられています。
この見立ての変化を裏付けるように、Webサイト「鬼が仏になった里くにさき」などには、六郷満山の初期が薬師如来を祀るための霊場であったという記述が見られます。
熊野磨崖仏で、最初に刻まれた薬師如来の「見立てが変化した」という事実は、単なる名称の変更ではなく、そこに信仰の変遷や意図的な「上書き」のプロセスがあったと推察されます。
牛頭天王の本地仏としての「薬師如来」
この「薬師如来」というキーワードは、牛頭天王(ごずてんのう)の信仰と歴史的に深く関わります。
箕面市観光協会のウェブサイトなど、複数の情報源に以下の説が記されています。
「牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。」
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。
つまり、牛頭天王の本地仏が薬師如来であったという根拠が示されます。
この点を踏まえると、熊野磨崖仏の大日如来(元は薬師如来)と不動明王という組み合わせは、以下のプロセスを強く示唆しているように見えます。
・地域に深く根付いていた牛頭天王(スサノオ)の信仰が、その本地仏である薬師如来と結びつく。
・その薬師如来の存在が、密教の最高位の仏である大日如来へと、後の時代に「上書き」された。
「上書き」された信仰と「一対の神」の再編の可能性
なぜ薬師如来から大日如来へと「見立て」が変わったのでしょうか。
薬師如来は病気平癒や現世利益の仏として身近な存在であり、本地仏である牛頭天王も疫病退散という切実な願いに応える神でした。
一方で、密教の大日如来は、宇宙の真理そのものを表す最高位の仏であり、より抽象的で普遍的な存在です。
信仰を特定の地域や病気といった具体的なものから、より普遍的な、国家的な護国思想へと再編する過程で、薬師如来がより高位とされる大日如来へと「上書き」された可能性が考えられます。
さらに、この「上書き」の背景には、密教における「一対の神」の概念、すなわち金剛界大日如来(智慧・男性性)と胎蔵界大日如来(慈悲・女性性)が深く関わっている可能性も考えられます。
もし、牛頭天王の信仰の背後に、徐福や豊玉姫に繋がる男女一対の太陽神(あるいはその原型となる神々)の信仰があったとすれば、その後の歴史の中で、特定の勢力によってその関係性や本来の姿が「上書き」や「再編」されていったと推察することができないでしょうか。
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