【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録
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Googleフォトを見て、記事化していなかった写真をコツコツとアップしています。

今回の記事は2023年9月18日に訪れていた、福岡県みやこ町伊良原「藤の宮 高木神社」の記録です。

目次

あの頃、地域の方が頑張っていた農家レストランを目当てに行っていた伊良原

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録

たしか昨年惜しまれながら閉店した、伊良原の農家レストラン「隠国(こもりく)の食 伊良原」。

2021年に移住してから、山の匂いと美味しい食事目当てに車で40分かけて行っていました。

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録

臭みが全くなかったジビエと、新鮮・瑞々しい丼、好きだったんです。

レストランの近くに「藤の宮 高木神社(タカキジンジャ)」

レストランで食事をした後、少し散歩しようとレストランからも見える神社が「藤の宮 高木神社」でした。

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録

真新しい鳥居。

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録
鳥居の手前には標柱があった

立派で新しい神社。そんな印象を受けたと思います。

【福岡県みやこ町伊良原】ダム建設により遷座した「藤の宮 高木神社」2023/9/18撮影記録

ふるさとの産土神
一、祭神
藤の宮髙木神社
高御産霊神(たかみむずびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
二、由緒
当社は彦山開基第四世羅運、末代神領地守護のため領内四十八ヶ所に高御産霊神を勧請し大行事社とし祭祀する一社であって、嵯峨天皇弘仁十年(八一九)の創建である。
天正十五年(一五八七)までは当地方は彦山の神領地であり、本社は彦山の摂社として英彦山神社と共に国主領主の保護されるところであったが、同年豊臣秀吉が九州治定の後神領を没収したので、以後氏子(上伊良原)より造営祭祀することとなった。また社説によれば、社号は元大行事社と称され明治元年に髙木神社に改称され、同六年には村社に定められた。
弘仁十年、彦山開基第四世羅運上人が、地方人旦夕の参拝の便をよくするため、彦山七口四十八ヶ所に大行事社を置き、当社はその一社である。社は祓川の清流に臨んで風致に富み、俗に「藤の宮」と称せられ、星霜千百有余年、産土神として崇敬深く祭祀を継承してきたが、平成二十六年四月福岡県による伊良原ダム建設事業に伴いこの地に新社殿を造営し、御遷座されたものである。
三、鎮座地
現社地 福岡県京都郡みやこ町犀川上伊良原字京塚五〇九
旧社地 福岡県京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田三〇八

由緒書きを見て納得。

ダム建設のために遷座された神社でした。

あの頃はこの由緒書きを見ても気づかなかったことですが、この神社も明治時代に社号が改められています。

福岡県神社誌で確認

村社 高木神社
京都郡伊良原村大字上伊良原字向田
祭神 高御産靈神、神御產靈神、國常立命
由緒
當所は往昔官幣中社英彦山神社の神領地なりしに依り、彦山開基第四世羅運、末代神領地守護のため領内四十八個所に高御産靈神を勧請し大行事社とし祭祀する所の一にして、實に嵯峨天皇弘仁年中の創立なり。
天正十五年までは當地方は彦山の神領地にして、本社は彦山のとし英彦山神社と共に國主領主の保護せる所なりしが、同年豊臣秀吉九州治定の後神領を沒收せられたるより、爾後氏子(廊)より造營祭祀す ることなれり。 英彦山神社古記錄に造營竝に額面奉掲の記事あり即ち左記の如し、奉再建大行事神社一宇大檀那彦山麓山寺座主正有依敬白、永享三辛亥年八月日大行事社額一面大檀那彦山座主法嗣少僧都有休敬白、助願施主云々、元和二丑辰年七月吉辰日。
同書に左の記事あり、藤の宮大行事の社號彦山座主 有法親王御簾中者在昔仲津郡城井城主宇都宮賴房嗣子 宇都宮信勝第一女云々(中略)。御簾中從前宇都宮家產土神なる由緒に依り、藤の宮には御崇敬被爲在猶於座 主院も亦神領内産として云々(中略)。 景行天皇十二年熊襲反す云々 (中略) 其後復熊襲叛す於是日本武云々(中略)。御巡狩之砌伊良和羅之大藤葛御聖覽の上恭も賜賞詞之榮、尚御稜威亦有幾千載之餘榮在此故事大行事御遷座當時藤の宮號奉たる起原云々(下略)。 本社に寄進札二枚をす其文左の如し、寄進一上酒一丁金貳朱貳拾本細川越中守、一銀札三百目小倉細野御氏、附記前件二枚の札には年號月日記載なきも、古老のふる所に依れは寛永三年御神證改彫及社殿改築のことあり、當時國主たる細川家竝郡役たる細野氏よりの寄附なりと云ふ。
寛保三癸亥年九月額面の大行事の三字奉掲す、筆者は英彦山龍王院法眼孝有なり。
享保二丁酉年十一月石鳥居建設、額面の大行事の三字の筆者は慧明別朴覽義之印とあるのみ氏名分明ならす。 寛延元年拝殿再建、棟札に奉建立大行事拜殿一字、 祇司熊谷左膳、宮緒方忠兵衛、庄屋進久兵衛、惣氏子中、寛延元辰歲八月吉祥日。天保十一年神殿改築棟札に、當社建替棟上天保十一年七月二十四日、棟梁田川郡上津野村栗山四郎兵衛、 同栗山清蔵とあり。
附記棟札に建替とあるも天保の改築は腐朽の木材を取替大營繕を施したるなり、彫刻物の如きは全く従前のものを用ひ居て、此彫刻物は竹田番匠の作なりと云ふ、故に棟札も頗る粗略の記載方なり。
明治六年七月九日村社に定めらる。
又社説に曰く、社號元大行事と稱す、明治三年改稱す。 弘仁十年、彦山開基四世羅運上人、地方人旦夕の参拝に便する爲、彦山七口四十八箇所に大行事社を置く、 當祉其の一なり。 星霜千百有餘年、産土神として地 万人の崇敬からす。社は秋川の清流に臨みて風致に 富み、俗に「藤の宮」と稱へ、其の名四隣に聞ゆ。
神幸には、打青年十二名供奉し、相撲神樂の奉納亦例に洩れず。神楽は岩戸神楽と稱し、熟技下伊良原神とびせらる。
例祭日 四月十三日
社本殿
神饌幣帛料供進指定 明治四十四年四月十八日
主なる建造物 本殿、幣殿、拝殿、社務所、御輿庫、末社本殿
境内坪数 千六百十二坪
境內神社
氏子區域及戶數 上伊良原區 約百十戶
一社(須佐之男命、大山祇命、句々廼智命、 猿田彥大神、高龗神)

福岡県神社誌から引用

現代語訳(由緒)

この場所は、古くは官幣中社・英彦山神社の神領地(社領)でした。英彦山開基の第四世である羅運(らうん)上人が、末代まで神領地を守護するために、領内の四十八箇所に「高御産霊神(たかみむすびのかみ)」を勧請し、大行事社として祀ったうちの一社です。実際の創立は、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824年)に遡ります。

天正15年までは、この地方一帯は英彦山の神領地であり、当社は英彦山神社とともに歴代の国主や領主から保護を受けてきました。しかし、同年、豊臣秀吉の九州平定によって神領が没収された後は、氏子たちの手によって造営や祭祀が行われるようになりました。

英彦山神社の古記録には、社殿の再建や扁額の奉納について、以下のような記述があります。 「大行事神社の社殿一宇を再建奉納する。大檀那は英彦山麓の山寺座主・正有。永享3年(1431年)8月日」 「大行事社の額一面を奉納する。大檀那は英彦山座主の跡継ぎである少僧都・有休。元和2年(1616年)7月吉日」

また、同書には次の記述もあります。 「藤の宮大行事」という社号について。かつての仲津郡城井城主・宇都宮頼房の跡継ぎである宇都宮信勝の第一王女が、英彦山座主(有法親王)の御簾中(奥方)となりました。この御簾中が、以前から宇都宮家の産土神(うぶすながみ)として当社を深く崇敬していた由緒により、藤の宮へ対する崇敬は厚く、座主院においても「神領内の産土(守護神)」として重んじられました。

景行天皇12年に熊襲(くまそ)が反乱を起こした際、その後の日本武尊(やまとたけるのみこと)による征伐にまつわる伝承があります。天皇がこの地を巡幸された際、伊良原(いらはら)の見事な藤の葛(かずら)をご覧になり、お褒めの言葉を賜りました。その栄誉は数千年を経てもなお残り、この故事にちなんで、大行事社を遷座する際に「藤の宮」という号を奉ったのが始まりとされています。

当社には二枚の寄進札が残っています。 一、上酒一丁、金二朱二十本:細川越中守(忠利)より。 一、銀札三百目:小倉の細野御氏より。 これらの札には年月日の記載はありませんが、古老の伝えによれば、寛永3年(1626年)に御神体の彫り直しと社殿改築が行われた際、当時の領主である細川家および郡役の細野氏から寄附されたものだといいます。

寛保3年(1743年)9月、英彦山龍王院の法眼(僧位)である孝有の揮毫による「大行事」の三文字を記した扁額が掲げられました。また、享保2年(1717年)11月には石鳥居が建設されましたが、その額にある「大行事」の筆者は「慧明別朴覧義之印」とあるのみで、氏名は定かではありません。

寛延元年(1748年)8月、拝殿が再建されました。棟札には、神職の熊谷左膳、緒方忠兵衛、庄屋の進久兵衛、および総氏子中の名が記されています。天保11年(1840年)7月には神殿が改築されました。棟札には「建替(建て替え)」とありますが、実際には腐朽した木材を取り替える大規模な修繕でした。彫刻などはすべて以前のものを用いており、これらは名高い「竹田番匠(たけたばんしょう)」の作であると伝わっています。そのため、棟札の記載は簡略なものになっています。

明治6年7月9日に村社に列せられました。 また別の社説によると、もとの社号は「大行事」でしたが、明治3年に現在の「高木神社」へと改称されました。弘仁10年、羅運上人が里の人々が朝晩参拝しやすいようにと、英彦山へ至る七つの入り口(七口)の四十八箇所に大行事社を配置しましたが、当社はそのうちの一社です。 1100余年の間、産土神として地域の人々から篤く崇敬されてきました。社殿は秋川の清流に臨み、風光明媚な場所に位置することから、俗に「藤の宮」と呼ばれ、その名は周辺に広く知れ渡っています。 神幸祭(じんこうさい)では、選ばれた青年12名が供奉し、相撲や神楽が奉納されます。この「岩戸神楽」は熟練の技として知られ、下伊良原神楽とともに高く評価されています。

福岡県神社誌の情報を確認したところ、大変興味深い情報を得ることができました。

  • 宇都宮氏と英彦山とのつながり
  • この神社は宇都宮氏が産土神として祀っていたこと(宇都宮信勝の娘が嫁ぐ前から)

このメディアで追っている右三つ巴紋の謎に、宇都宮家も関わっています。祓川や「藤」との関連も含め、気になるエリア、それに神社です。

「藤の宮大行事」という社号について。かつての仲津郡城井城主・宇都宮頼房の跡継ぎである宇都宮信勝の第一王女が、英彦山座主(有法親王)の御簾中(奥方)となりました。この御簾中が、以前から宇都宮家の産土神(うぶすながみ)として当社を深く崇敬していた由緒により、藤の宮へ対する崇敬は厚く、座主院においても「神領内の産土(守護神)」として重んじられました。

後に宇都宮鎮房は、豊臣秀吉や黒田氏(孝高・如水)によって滅ぼされるという過酷な運命を辿ります。

しかし、その血脈が英彦山で続いていたという歴史は非常に重要なことと思いました。

藤の宮 高木神社の場所

〒824-0252 福岡県京都郡みやこ町犀川上伊良原438−1

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この記事を書いた人

2021年に豊前市へ移住。フォトライターとして、主に福岡県の豊前市・上毛町・吉富町・築上町・みやこ町・行橋市・苅田町、および大分県の中津市・宇佐市・豊後高田市・国東市といった旧・豊の国エリアを活動範囲としています。
カメラを持ってフラッと6時間のカメラ旅に出かけ、このエリアの史跡、神楽、祭りなどを記録し、「日常を離れた歴史の世界」の魅力を発信するほか、古民家図書館を運営。

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