史跡を巡り、地名や神社の由緒書きを注意深く見ていくうちに、現在の表記とは異なる旧称があったことに気づきます。例えば「乙比咩(おとひめ)」が「乙咩(おとめ)」に、「貴船神社」が元は「木舟神社」だった可能性などです。
このような字の変遷に注目すると、藤原氏に関する字にも、古代の何らかのヒントが隠されているのではないかという疑問が浮かびました。
私が昔プログラマーをしていたことから、こういった情報をデータのノードとして捉えてしまい、そうすると、意外なつながりに気づくことがあります。
今回は複数のキーワードがつながったので、我ながら荒唐無稽と思いながら考察してみます。
「木」が消される謎
神社の旧称に「木」が隠されていた可能性から、まず「木」というキーワードの持つ意味を考察します。
日本の神話には、明確な木の神である句句廼馳(くくのち)の神が存在しますが、他の主要な神々に比べ、その信仰が前面に出ることは少ないように見えます。
菊理媛神の由緒: 白山神社の御祭神である菊理媛(くくりひめ)神の「くく」について、新潟総鎮守 白山比咩神社のWebサイトには、「くくりひめの『くく』とは木の祖神『句句廼馳の神』(くくのちのかみ)と申し上げて木がぐんぐん伸びていく様を。(中略)『理』は『天の神を理といい、地の神を気という』と古書にあり、天の神様の事であります」と記載されています。
信仰改変の可能性: もし「木」が特定の土着信仰や渡来系集団の技術(林業など)と強く結びついていたとしたら、その信仰は、中央集権的な神話体系を構築する過程で意図的に薄められた可能性も考えられます。これは、地名や社名が改変された理由の一つと推測されます。
豊前の祭りに残る「木」の記憶:「紀」氏と水の神々
この「木」の系譜が、私たちの住む豊前市にも残っている可能性が考えられます。
豊前市の大きな祭礼行事「八屋祇園」の神幸祭の起源は、聖武天皇天平12年(740年)の藤原広嗣の乱鎮圧に遡ると伝えられています。
当社の春の大祭である神幸祭(じんこうさい)は八屋祇園(はちやぎおん)と呼ばれ、地元の方々に親しまれております。神社の縁起によると、第45代聖武天皇天平12年(740年)に「藤原広嗣の乱」が勃発し、当地の豪族であった紀宇麻呂(きのうまろ)公が平定の為に当社に戦勝祈願をして出兵いたしました。乱は無事に鎮圧され凱旋した紀宇麻呂公は御神威を尊び、当社に宮殿・神門を造営し、「八屋八尋濱(はちややひろがはま)」に神輿安置の仮殿(御旅所)を造り、神幸(お神様を御神輿に乗せてお運びすること)を行ったと記されています。
神幸行列は紀宇麻呂公の凱旋の様子を模しているとも伝わります。
大富神社ホームページから引用
乱の鎮圧に貢献したとされる郡主の一人、紀宇麻呂(きの うまろ)の「紀」は、木の神の子孫とされる紀氏(紀伊国造)に繋がる可能性が考えられます。
さらに、八屋祇園の神事は、豊前市内の吉木(よしき)地区の貴船神社から始まります。
吉木と貴船: 「吉木」という地名に「木」がつき、水神・龍神を祀る「貴船神社」が、かつて「木舟神社」であった可能性を合わせると、ここでも「木」と「水」「龍」のキーワードが結びついているように見えます。
「藤」に隠された謎:富士山と権力の象徴
この「木」と「水」の繋がりから、藤原氏の「藤」という字にも、古代のメッセージが隠されているのではないかという連想が働きます。
「富士山」が、実は「藤山」であったのではないかという仮説です。
富士山と水神: 富士山は豊富な湧き水を持ち、古くから水の神や龍神信仰と深く結びついてきました。実際に、富士山近隣の富士宮市には、水神を祀る貴船神社が存在します。
藤原氏との繋がり: 富士山近くには、読み方は異なるものの漢字で「藤」がつく「中藤山(なかっとうさん)」があるという情報も見られます。
中藤山は、富士箱根国立公園の北端に近く、富士山の眺望を連続的に楽しめる黒岳ー新道峠ー大石峠ルートの途中に位置しています。山頂からは眼下に河口湖の市街地が一望されるほか、河口湖の湖越しに富士山の大パノラマが眺められます。
さらに、瀬織津姫の像を彫ったとされる僧、円空上人(姓が藤原)の言葉も印象的です。
彼は「この藤の花が咲く間は、この土の下で生きていると思え」と言い残して入定したと伝えられています。
この「藤の花」は、単なる植物の藤を指すだけでなく、藤原氏の権勢、あるいは彼らが確立した秩序、あるいは「藤山」としての富士山を象徴していた可能性も考えられます。
藤原氏のルーツが旧豊前エリアにあった可能性と、その地の地名に「勝」の字が多いこと(「藤」の草冠を取ると「勝」になるという連想)も、古代の字に込められたメッセージかと、つい考えを巡らせてしまいました。
この記事を読んでいる方におすすめの記事
豊前市の八屋祇園は吉木の貴船神社と乙女八幡神社から始まる↓

旧豊の国エリアに残る「中臣氏」のかけら↓

この記事を読んでいる方におすすめの記事↓






