豊前市に移住して以来、国東半島は頻繁に訪れる場所の一つです。昨年末、久しぶりに訪れた天念寺は、国東半島で平安時代に栄えた寺院群「六郷満山」を構成する寺院のひとつです。
その内陸部にある天念寺の境内で、海の波を表す紋様「青海波(せいがいは)」が描かれた建物に遭遇しました。
この山の中の「海」の痕跡が意味するものを考察します。
六郷満山(ろくごうまんざん)・天念寺が持つ役割
六郷満山とは、両子山を中心とした六つの郷に点在する寺院群の総称です。宇佐神宮の御祭神である八幡大神の生まれ変わりとされる仁聞(にんもん)菩薩が開基したという伝承に基づき、古来の山岳信仰と天台系修験などが融合した、独自の神仏習合文化が開花しました。
天念寺は、六郷満山の中でも、学問修行の場である「中山本寺」の一つであり、山岳修練の行を実践する僧が集う重要な寺院でした。
六郷満山の寺院は、学問修行の場でした。それは立地と役割により三つに大別されています。まず、宇佐八幡宮に近い 八ヵ寺を本山本寺とし、学僧養成と統率的な職務を担当していました。次に、半島中部に位置する十ヵ寺を中山本寺とし、山岳修練の行を実践する僧が集い、各種記録を行う職務を持つ寺。そして半島周辺部にある十の寺を末山本寺とし、主に一般の人々と接しながら修行することを旨としていました。
山岳修行の場と水の鎮静
天念寺の背後には、「天念寺耶馬」と呼ばれる岩山がそびえ、修行の場となっていました。尾根には「無明橋」と呼ばれる石の橋がかかっています。

また、門前の長岩屋川の水中には、「川中不動」と呼ばれる磨崖仏があります。

これは、暴れ川だったという長岩屋川を鎮めるために彫られたと伝えられており、治水や水の神の鎮静が、この地で重要なテーマであったことを示唆しています。
身濯神社(旧六所権現)で見つけた海の紋様
川の氾濫から逃れられた高台には、天念寺の講堂と、その脇に身濯神社が並んで建っています。寺と神社が並ぶ姿は、まさに国東半島らしい神仏習合の原風景です。


この身濯神社の本殿(朱塗りの建物)に描かれていたのが、「青海波」の紋様でした。この紋様は、古代から伝わる海の波を表す伝統的な紋様です。



神社の由緒と追記情報
境内の看板には、身濯神社について以下のように記されていました。
天念寺の講堂と本堂に挟まれた場所にある身濯神社は、明治の神仏分離以前は六所権現とよばれていた。八幡神と関わりの深い神々が祀られており、長岩屋の鎮守社として信仰されている。
看板より引用
そして、後日の調査により、この天念寺の身濯神社(六所権現)には、八大龍王が祀られていたという情報がありました。
八大龍王は仏教における水の神・龍神であり、龍神信仰は海洋交通の安全や治水に不可欠な信仰です。
この情報と、本殿に描かれた青海波、そして川中不動の存在は、この山中の寺院が、単なる山岳修行だけでなく、水の神(龍神)の祭祀を深く行っていたことを裏付けています。
他の身濯神社との繋がり
天念寺耶馬の北側に続く無動寺耶馬の麓にも、無動寺の身濯神社があります。
無動寺も天念寺と同じく中山本寺の一つとして栄えました。
無動寺の身濯神社の御祭神は、伊弉諾尊、大直日神、八十猛津日命、そして宗像三女神などです。
「身濯(みそそぎ)」とは「水で汚れを洗い落とす」という意味を持ちます。
この御祭神を見ると、穢れ(けがれ)からの禊(みそぎ)に関連する神々(伊弉諾尊、大直日神、八十猛津日命)や、海の女神である宗像三女神が祀られており、祓い・水の力を重視した信仰構造が確認できます。
まとめ:山の中に隠された海と龍神の祭祀
天念寺の身濯神社に残された青海波の紋様と八大龍王の祭祀は、山岳修行の場である六郷満山が、海と水を統べる龍神の信仰を深く内包していたことを示しているのでしょうか。
古代、国東半島を開いたとされる仁聞菩薩が宇佐神宮と関係が深いことから、八幡神と関連の深い神々が祀られていたという伝承も、この地域の信仰の複雑な融合を示唆しています。
山の中に残る「海」の痕跡、この小さな疑問が、古代の信仰の構造を解き明かすための重要な手がかりとなるのか。
まだまだ謎が残ります。
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