長浜町の貴布禰神社
豊前に移住してから、北九州市が逆にお出かけの場所に変わりました。
先日は用事で小倉駅方面へと。
空いた時間で気になる神社を散策してきました。
訪れた神社は小倉駅から徒歩で11分、長浜町の貴布禰(きふね)神社です。

「貴船」と「貴布禰」は同義で扱われることが多く、主に水の神様(高龗神・闇龗神)が祀られます。


この時は、易の南側から海と川が見える道を通り、住宅街を通っていきました。
平日だからか町中とは思えない静かさでした。


住宅やマンションが並ぶエリアに、綺麗に手入れされている神社が現れます。
万葉集の歌が刻まれた石碑


神社の拝殿左側には大きな石碑が立っています。
「豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ」
歌が刻まれています。


小倉から門司の大里にかけての海岸は「企救の長浜」とか「企救の高浜」と呼ばれていました。この長い海岸線には白砂と美しい根上り松が群生して、遠く万葉の昔から太宰府に往来する貴人や防人たちの心を慰めたものでした。この「企救の長浜」、「企救の高浜」を詠んだ歌が万葉集に2首でています。
豊国の企救の長浜ゆきくらし
日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
(歌意)豊前の国の企救の長浜を歩き続け、日が暮れてしまえば
そぞろにいとしい人のことが思われる。
※注「暮れぬれば」の読みもあるが、「暮れゆけば」を採った。豊国の企救の高浜たかだかに
君待つ夜らは小夜ふけにけり
(歌意)豊前の国の企救の高浜の高の名のように、高々と爪先き
立つ思いで君を待つ夜はもうふけてしまった。江戸時代、門司口橋を渡ったところに門司口門がありました。小倉城郭の門の一つで、この前の道は、大里方面に通じる九州諸大名の参勤交代の道でした。
北九州市教育委員会
万葉集として詠まれたこの地の名前「長浜」。歴史ある場所のようです。
鳥居に刻まれた「貴布祢大明神」


「貴布祢大明神」と鳥居の扁額に刻まれていました。
大明神とは、神仏習合における仏教的な神の呼び名のひとつです。


鳥居の足の部分には「延宝七巳末八月吉日」と刻まれていました。
延宝七年は、西暦1679年のこと。
綺麗な鳥居だったので、新しいものかと思ったらそうではなく。
北九州の街中にも歴史が残っていたのですね。
拝殿右側には境内社と八大龍王と長浜弁財天の石碑


拝殿右側にも色々ありました。


境内社の手前に八大龍王の石碑がありました。
北部九州を歩いていると、気になる場所で八大龍王に出会います。




その奥に境内社と長浜弁財天の石碑。
拝殿左側にも境内社_ここで左右対称の三つ巴紋に気づく


拝殿左側には境内社がありました。


ここで気づいたことがあります。
境内社にかけられている帷の三つ巴紋が左右対称なのです。
これは初めて見ます。


中央の拝殿にかけられていた帷は、宇佐神宮と同じ「左三つ巴紋」。


反対側の境内社も、よく見たら左右対称でした。
これは、何を示しているのでしょう。
御祭神について書かれているような看板は見当たりませんでした。
境内の中には多くの「石」
この神社には多くの「石」や「石造物」が目につきました。


こちらは自然石ですよね。
狛犬のように二か所、同じような石がありました。


色の違う石が重なり合っています。


玉垣と呼ばれる石の柵。歴史を感じます。


他では見たことがない形の石造物。
崩れそうなのか、支柱で支えられています。
石灯籠の形にも見えます。


こちらは小ぶりな春日燈籠。
奉納した方の名前は「丹生」さん。


火袋の部分に刻まれた山は二つ。
新しい春日燈籠は、だいたい山が三つだったと思いますが、こちらは二つ。
拝殿を見上げると見えた「菊」のような花の彫刻


拝殿の上を見上げると、木鼻の彫刻の上にさらに彫刻がありました。


菊のような花が刻まれていました。
日本において菊は奈良時代に中国から伝わったそうです。
菊と企救。
「きく」という読みは同じですね。


こちらは逆サイドの木鼻です。
木鼻が狛犬というのは、珍しいそうです。
神社の端にお神輿格納庫


鳥居を出て、神社の右奥に向かうと


立派なお神輿格納庫がありました。
おわりに


北九州市に暮らしていた頃は見えなかった、この土地の古い歴史。
今年はこのエリアでも、歴史の跡を、この目で確かめていきたいと思います。
福岡県神社誌で長浜町貴布禰神社の情報を確認
福岡県神社誌 下巻で確認
貴布禰社
高淤加美神、闇淤加美神、三筒之男神
長濱字蛭子堂
由緒付無各社の項目に情報がありましたが、由緒など詳しくは不明。
住所に「蛭子堂」と書かれていることが気になる点です。
長浜町貴布禰神社の場所
〒802-0013 福岡県北九州市小倉北区長浜町2−21
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