撮りためたGoogleフォトを眺めて、まだ記事化していなかった写真をアップしています。
2020年9月に訪れていたのは、福岡県中間市の埴生神社です。
埴生神社 2020年9月撮影記録
当時は中間市から近い北九州市の西側に住んでいました。
でも中間市のことは詳しくなく、埴生神社のこともよく知りませんでした。

たしかこの近くに、道の駅のような施設があり、そこに車を停めて、散歩してみることにしたんです。

大きな池が特徴。

この垣生公園は、都市公園として整備されており、埴生神社はその中央にありました。
公園の敷地内には垣生羅漢百穴(はぶらかんひゃっけつ)という横穴群もありました。
古くから人が住んでいた場所だったのです。

橋を渡るとこんもりとした丘。
中間は大昔、海だったというのですが、ここは海に浮かぶ島のような景色だったのかもしれませんね。

石段をのぼると、埴生神社がありますが、GoogleMapで更に奥に須賀神社もあることが分かりました。
次回訪れることがあれば、もっとくまなく回ってみたいです。

この神社から見える空はとても大きく、気持ちがよい場所だったことはとても覚えています。
福岡県神社誌で垣生神社の情報を確認
福岡県神社誌より
村社 八幡神社
遠賀郡中間町大字ハッ廣
祭神 應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、天照皇大神
由緒 當社は昔仲哀天皇、神功皇后と御舟にて此垣生に着かせ給ひ暫らく熊襲征伐の行宮の跡なり 仲哀天皇、神功皇后、應神天皇相殿に天照大神を崇め祭り八幡宮と祝奉りて垣生郷の本社産神と村民深く尊敬せり 昔大友宗麟が兵火に焼失其後當山の中腹に建社し寛政年に又舊社趾に建立、明治五年十一月三日村社に被定。
又社説に曰く、當社は埴生郷の社なり、源に須之和名抄に著せる岡の六郷の第一なり。當所より西北數箇村 埴生郷の内にして中古夫々村名分れて數箇村となり、 今は埴生一村の村社となれり。當社は仲哀天皇神功皇后熊襲征伐の岡湊より御船を進め給ひ埴生鄉船津に上陸御宿陣し給ひし行宮の舊跡に齋奉りて武運と安産 の神として庶民の崇敬厚く今日に到り由つて御船を止め給ひし所を船津と呼び今に地名あり、又御輿を止給ひし跡に松を植へて御輿懸の松と稱へ、又平地の?中に類なき盤石あり、神功皇后此の石に上りて遠近を眺望し給ふ、此の石を沓石として語り傳ふ。又當社より五六町の岩に老松あり、神功皇后熊襲を御平定 あらせられ都に歸り給ふ時、住吉大神を奉祀し渡海安 全の御を捧げ給ひて剣鉾をり、後世の験に皇后自 植え給ひしなり渡海安全を祈らせ給ひし故渡海の松と唱へしを後世誤りて塔の松と言ひ傅ふと今に神幸の祭壇あり。
例祭日 十月十二日、十三日
神饌幣帛料供進指定 明治四十年八月二十六日
主なる建造物 神殿 幣殿、拝殿
境内 千八百二十二坪
氏子區域及戶數 埴生區砂山區 九十戶
境内神社 天滿神社(菅原神)
須賀神社 (素盞嗚尊)
恵比須神社(事代主尊)
貴船神社(高龗神)
引用文中の「?」は田圃の「圃」に似た字でしたが、手書きパッドでもヒットせず。
所在地: 遠賀郡中間町大字垣生(はぶ)
祭神: 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、天照皇大神
由緒
ここはかつて、仲哀天皇と神功皇后が御船で着岸され、熊襲征伐の際の仮の宮(行宮)を置かれた場所です。のちに三柱の天皇と天照大神を合わせ祀り、八幡宮としてこの地の産土神(うぶすながみ)となりました。
戦国時代、大友宗麟の兵火により焼失。一時期は山の中腹に移されましたが、寛政年間に再び元の跡地に再建されました。
社説(伝承)
この地は、古くから「埴生(はにゅう)郷」と呼ばれた場所です。
仲哀天皇と神功皇后は、岡湊(おかのみなと)から船を進め、ここ埴生郷の「船津」に上陸して陣を構えられました。その旧跡に神々を祀ったのが当社の始まりです。武運と安産の神として、今も厚く信仰されています。
周辺には、今も当時の記憶が地名や伝承として残っています。
船津(ふなつ): 皇后が船を止められた場所。
御輿懸(みこしかけ)の松: 皇后が輿(こし)を止められた跡に植えられた松。
沓石(くついし): 皇后が登って遠くを眺めたという、平地にある珍しい巨石。
塔の松(元の名は「渡海の松」): 皇后が熊襲を平定して都へ戻る際、住吉大神を祀り、海の安全を祈って剣や鉾を立て、自ら植えられた松。
祭日: 10月12日、13日
境内神社: 天満神社(菅原神)、須賀神社 (素盞嗚尊)、恵比須神社(事代主尊)、貴船神社(高龗神)
このエリアが海であったことが、神社誌から伝わります。
北部九州の海の痕跡は、神功皇后と重なりますね。
もう少しちゃんと神功皇后を追いたいと思いました。
埴生神社の場所
〒809-0001 福岡県中間市垣生424

