宇佐神宮や六郷満山の歴史書を読み進めるうちに、私たちはある疑問に突き当たりました。
それは、文献に書かれる以前の、史書には記録されず名を消されたかもしれない一対の男神と女神の存在です。
この仮説を頭に置いて豊前やその周辺地域を巡る旅を続けていると、不思議と「やはり何かあるのではないか?」と思わせる痕跡が、石灯籠や地元の伝承といった形で目に飛び込んできます。
この記事では、愛媛県の日尾八幡神社で見た二種類の石灯籠をきっかけに、古代の祭祀に隠されたもう一つの歴史のストーリーを考察します。
石灯籠がもう一つの歴史を語る?



旅の途中で、愛媛県の日尾八幡神社に立ち並ぶ石灯籠に気づきました。
そこには、以下の二種類が存在していました。
1.春日灯籠(竿が円柱形)
2.四角錐の笠をした石灯籠(竿が四角形)
石灯籠は奈良時代に仏教とともに日本に伝わり、燭台として使われるほか、神仏への供養として献じられる供物の一種でした。
つまり、そこに特定の形の灯籠が設置されることには、深い意味があったと考えられます。
石灯籠の形状が示す神格の考察
古い専門書や図鑑の情報は少ないものの、それぞれの石灯籠の形状から、以下のような連想と仮説が浮かび上がります。
| 石灯籠の形状 | 図鑑での名称 | 連想される仮説 |
| 春日灯籠(円柱形) | 「春日燈籠」(一部では「祓戸型」とも) | 女神(祓い、水)の神格を示す可能性。 |
| 四角錐の笠(四角形) | 「神明形」 | 男神(天照大神、金毘羅など)の神格を示す可能性。 |
図鑑で「神明形」とされる四角錐の笠をした灯籠は、天照大神が祀られる神社の名前と結びつきます。また、これが各地に残る「金毘羅燈籠」と同じ形であるという事実は興味深い点です。
もし、四角錐の灯籠(男神?)と春日灯籠(女神?)が一対で並べられていた場合、それはかつての神社が男神と女神の一対の信仰を祀っていたことを示す痕跡かもしれません。
現時点では資料が少ないため、あくまで目で見たものからの仮説にすぎません。
しかし、今後データの数が増えれば、この「一対」の法則から、また何か見つかるかもしれません。
「消えない痕跡」を追いかける理由
なぜ文字の記録ではなく、石灯籠や伝承といった「痕跡」を追いかけているのか。
歴史の記録は、権力によって書き換えられることがあります。
明治時代に神社の御祭神の記録が変えられた歴史があるように、文字で紙に書かれたものは時の流れや権力者の意図によって変えられてしまう可能性があります。
しかし、石灯籠のように簡単に壊せないものや、何百年も続いてきた祭り(汐汲み神事など)、神社の位置、古墳といった有形・無形の「痕跡」は、当時の事実を語り続けているように感じます。
文献にはない、もう一つの歴史が、この国には今も息づいているのではないでしょうか。
地域に残す価値
過疎化が進む地方を巡るうち、せっかく残された貴重な歴史の跡が、そう遠くない未来に消えてしまうかもしれない、という危機感を覚えます。
私の活動は、決して「何が正しいか」を証明するものではありません。
ただ、目の前にある「事実」から、失われた歴史のかけらを、可能性のレベルでもいいから書き残すことが大切だと考えています。
「徐福」「天照=男神」といった仮説は、現代では非科学的と一笑に付されがちです。
しかし、北部九州エリアを歩いていると、「本当に違うのだろうか?」と思わせる歴史の跡が目に付きます。
素朴な疑問を個人的に調べ続けているだけですが、これを見て、何か感じる方も出てくるかもしれない。
そしてその疑問に答えてくれる人も出てくるかもしれない。そんな気持ちで旅を続けています。
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