豊前市に移住して本当にすぐの頃、如法寺に訪れてみました。
「如法寺…ねほうじ、ね。どんなところだろう?」
今も当時もWebサイトには情報が乏しく、インスタグラムでも投稿が見つからなかったように思います。
まぁせっかく近くにいるのだから行ってみようと、行ってみることにしたのです、あの時。
前情報がほぼないまま如法寺へ

「なかなか急勾配…」
如法寺に続く道は傾斜がキツく、結構な運動になる感じでした。
道の両サイドは、緑のトンネルのようで、樹木が茂っていました。

そのうち、見たことがない形の石造物が現れました。

黒っぽい色をしているが何だろうとじっと見ていると、石造物の背後にいた鳥と目が合いました。(多分)
鳥が飛び去ってしまうのを見て、一緒にいた子供と共に驚きました。
「何だか大きな鳥だったね!」

常在山 如法寺
伝承では、行基菩薩の開山と伝える寺である。
求菩提山資料によると、古くは求菩提六峯の一峯とされ、山頂に小白山若宮一佐羅王子を祀り、御本地を不動明王としている。不動明王は中世末の兵火で焼け、現在その焼不動は残るが秘仏として保存されている。
幸にして山門の仁王像は兵火からまぬがれ日本の古像の一つ、平安時代の仁王像として注目を集めている。
如法寺の歴史が明らかになるのは、平安後期の康治元年(一一四二)からである。求菩提山銅板法華経(国宝)に如法寺の僧厳尊の名がみえ、また彦山の銅板経もこの厳尊によって刻まれたことが知らされている。
元弘三年(一三三三)には、宇都宮氏によって後伏見天皇の第六皇子安に親王を如法寺に迎え、親王はそれより彦山の座王に入り助有法親王と改めている。
如法寺が広寿山の法雲和尚によって禅寺として再興されたのは、江戸時代の延宝から元禄にかけてである。したがって如法寺の兵火による荒廃はそれ以前であるが、天正十年の香春城主高橋元種の書状によると、当時如法寺は参拾町の寺城を有していることが知られ荒廃はそれ以後と考えられている。
なお、如法寺には中世末の石造品三百数十基残している。本尊としての両界曼荼羅は奈良国立博物館に収蔵されている。
豊前市教育委員会
当時は全くといってよく分からなかった看板の内容だけど、今なら少しだけ関係が見えます。
そして「宇都宮氏によって後伏見天皇の第六皇子安に親王を如法寺に迎え、親王はそれより彦山の座王に入り」「天正十年の香春城主高橋元種の書状」という記述も気になりました。
こうして過去の記録を改めて書き出すと、新たな発見が多いです。

さらに進むと見たことがない形の石造物。
後に「五輪塔」であると知ります。
墓標といってもよいのに「かわいい形だねぇ」と子供と話していた気がします…。


綺麗な花も咲いていました。後に知りますが、「シャガ」の花です。
先に進むと、お寺はすぐそこでした。

福岡県指定文化財(史跡)
如法寺境內
昭和四九年八月六日 指定
如法寺には二つの歴史がある。ひとつは天台寺院として、そしていまひとつは黄檗寺院としてのそれである。
古く、如法寺は赤菩提六峰のひとつとして、またその写経所として知られていた。
有名な康治元年(一一四二) 銘を刻む国宝銅板法華経が製作されたのもこの寺院であり、求菩提山再興の祖と言われる頼厳上人の依頼により、僧嚴尊が刻したとされている。また御本尊である木造如意輪観音像には、應永三年(一三九六)を記す躰内銘が見られ、その歴史を物語っている。
鎌倉時代以降、如法寺は宇都宮氏一族が座主を世襲するようになり、このころから如法寺氏を名乗るようになる。
その後、天正期の戦乱により如法寺は荒廃するが、近世小笠原時代になり黄檗宗の寺院として再興され、現代に受け継がれている。境内には県指定文化財の木造金剛力士立像や石塔群なども見られ、往時を偲ばせている。
豊前市教育委員会
天台寺院は最澄が開いたことぐらいは教科書に載っていて知っていたが、「黄檗寺院」は知りませんでした。
おそらくここで初めて目にしたのではないでしょうか。

看板の左側は石段です。
たしかこの時、石段ではなく違う道からお寺に入って行った気がします。
石段の先の門に、仁王像の木像が立っているはずなのに写真が見当たらないのでおそらくそうでしょう。

本堂の周りのツツジがとても綺麗だったのはよく覚えています。
右側はシャクナゲのようですね。
この時は気が付きませんでした。

写真右側が山門。
先程の石段はそこにつながっていました。

本堂左側に看板。

如法寺本堂
現在の如法寺は京都の黄檗山萬福寺を本山とする禅宗の寺です。萬福寺の開祖は明(中国)」の僧隠元で、承応3年(1654)に来日しました。その高弟として来日した即非如一が小倉藩主小笠原忠真に招かれ、寛文5年(1665)に小笠原家の菩提寺として広寿山福聚寺を開山します。如法寺はその福聚寺の末寺として法雲禅師により再興されました。
本尊は如意輪観音(市指定有形文化財)で、応永32年(1425)に制作されたことを示す墨書があります。

写経水。
看板がちゃんと撮れていませんでした。

敷地が拾いお寺です。

筍発見。

階段をのぼった先にも建物がありました。

宝地院跡
天台宗の寺院であった時代の如法寺の伽藍は明確ではありません。「如法寺縁起」によると、仏殿、講堂、経堂、文殊閣、宝鐘楼、金剛殿などの建物があり、求菩提山の有力な末寺として伽藍が整えられたことが分かります。その多くは戦国時代の兵火により失われたと考えられ、現存しません。そうしたなか、この宝地院地区では発掘調査により5間✕6間の礎石をともなう15〜16世紀の建物が確認されていて、懸仏や鰐口の一部が出土したことから、かつてこの場所に本尊があったと推察されます。なお、現在ある建物は黄檗宗の寺として後世に建てられたものです。
豊前市教育委員会
あの時はちゃんと読めていませんでしたが、元々天台宗寺院だった頃の如法寺の本尊がこのエリアにあったようです。
約4年前の写真を見返してみると、意外な発見が多く驚きます。
白山権現神社も確か如法寺内にあると聞いていますが、まだ行ったことがありません。
GoogleMapを見るとこのエリアよりも更に山の上、先にあるようでした。
次回はそこまで行ってみなければ。
如法寺の場所
〒828-0071 福岡県豊前市山内991





