神社や仏閣を巡っていると、
どうしても同じ違和感に何度も行き当たります。
瀬織津姫。
ミヅハノメノカミ。
水分神。
豊玉姫。

名前は違うのに、語られる役割や、祀られている場所が、あまりにも似ているのです。
川のそば。
湧水の近く。
山と平野の境目。
あるいは、かつて海だった土地。
水に関わる女神たちは、いつも「境界」に立っています。
瀬織津姫は、祓いの神として知られています。
穢れを流し去る存在。
ミヅハノメノカミは、水そのものを司る神。
雨や雪、湧き水と結びつけられています。
水分神(みくまりのかみ)は、水を分け、配り、土地に行き渡らせる神。
豊玉姫は、海の神の娘であり、陸と海をつなぐ存在として語られます。
それぞれ、役割の言葉は違います。
けれど、「水を通して、世界を調える」という点では、どこか同じ輪郭を持っているように見えてきます。
興味深いのは、これらの神が必ずしも大きな社だけに祀られているわけではないことです。
むしろ、名もない谷筋や、人目につかない山裾や、生活のすぐそばに、静かに残っている。
土地の人にとっては当たり前すぎて、あらためて意味を問われることもない存在。
それでも、水の流れが変わる場所には、必ずと言っていいほど、彼女たちの名が残っています。
水に関わる女神としては、白山神社の御祭神である菊理媛の名を思い浮かべる人もいるかもしれません。
山の水源に祀られ、争いを「くくる」役割を持つとされる菊理媛もまた、境界に立つ神として語られてきました。
同じ神なのか、それとも別々の存在なのか。
正直なところ、それは分かりません。
けれど、名前が違っても、同じような役割を持つ女神たちが、同じような場所に重なって現れている。
それは偶然なのでしょうか。
あるいは、人々が「水」という存在を、一つの名前では捉えきれなかった結果なのかもしれません。
水は、与え、奪い、浄め、壊し、つなぎます。
そのすべてを引き受ける存在は、一つの名では足りなかった。
だから土地ごとに、役割ごとに、違う名で呼ばれてきたのでしょうか。
同じなのか、違うのか。
それを決める必要は、ないのかもしれません。
ただ、水の女神たちが残した痕跡を辿っていくと、いくつかの風景が、すこし違って見えてくる。
それだけで、今は十分なのだと思います。





