今思えば、「全部つながっていたんじゃないか」と思うような、不思議な長い旅でした。
このウェブサイトで綴ってきた、右三つ巴紋、瀬織津姫、牛頭天王、貴船神社、八坂神社、山の中の海の謎などが、一本の線でつながったように思います。
もちろん自分は歴史の専門家ではないので、事実であるかどうかは判断がつきません。
それでも自分の足で現地に行って感じた違和感や、自分の目で見たものについて語ることはできます。
自分が体験したことを、このサイトに足跡を記録してきましたが、それらは言わば「点」です。
謎について誰かに知ってもらおうと思えば、点と点をつなぐ「線」がなければ、謎がつながる様子が伝わらないでしょう。
この連載記事では、これまでを振り返って綴ってみることで、謎解きのルートを形にしていきたいと思います。
原体験。幼少期に過ごした近畿地方で見た異世界の景色
私は小学生まで大阪で育ちました。
京都の親戚宅に滞在して祇園祭に参加したり、学校の遠足や宿泊合宿などで奈良や兵庫にも行きました。
特に記憶に残っている景色が、親戚と共に行った和歌山県の高野山です。
大阪の都市部で暮らしていた自分にとって、大きな木、苔むした石段・石灯籠が並ぶ光景は、まさに異世界でした。
「怖いけどすごい」
その衝撃は、大人になっても感覚の深いところに残り続けました。
慌ただしい暮らしに疲れ癒やしを求めるように宗像大社へ
子供時代を近畿地方で過ごした後は、広島に、そして進学のために海を越えて九州・福岡県北九州に移り住みました。
人生で一番長く過ごしたのは北九州市です。
結婚し、子供も生まれ、個人で仕事もしていたため、慌ただしい日々を送っていました。
神社に行くことといえば、家族の行事や初詣ぐらいの生活でした。
そんな頃、ふと宗像大社に行ってみることにしました。
北九州市から福岡市に遊びに行くとき、宗像市はただ通り過ぎるだけの町だったのですが、看板ではよく見かけていました。
それに広島に住んでいた頃、福岡市出身の友人から「うちの実家は車を買うと必ず宗像大社に行く」と聞いていて、認識はしていたのですが、それまで行こうと思ったことはありませんでした。
神社やお寺というものは、自分にとってあまり馴染みがない、関わりがない場所と思っていたからです。


しかし行ってみると、都市部とは違う広々とした緑あふれる空間が、思いのほか心地よく感じました。
「あれ、こんなに気持ちがよい場所だったんだ」
そう感じて、宗像大社にその後も立ち寄るようになりました。

宗像大社つながりで、宗像大社中津宮がある大島にも行きました。
この頃から都市部中心に暮らしていた自分が休日に行きたい場所が、自然豊かな郊外になっていきました。
少し元気になったのか、カメラを持って神社仏閣を巡るように
宗像大社に行くようになって少し元気が出たのか、カメラを持って神社仏閣巡りを始めました。
カメラは当時していたWebデザインの仕事の関係で持っていたのですが、あくまで仕事のために必要なものであり、好きで始めたわけではなかったのです。
「カメラが好き」ではなかったのですが上達したい気持ちがあったので、どうせ行くなら興味を持った神社仏閣の写真を撮ってみようと思ったのです。
子供の頃の原風景、「異世界のような景色」に惹かれたのでしょう。




子供の希望で豊前市の初登山・求菩提山
2019年末からのコロナ禍によって、人の行動が制限される日々が続くようになりました。
ある時、子供から「求菩提山に登ってみたい」と言われ、親子で人生初の登山に挑戦しました。
土地勘もなく、未経験者の親子が無事山を登れたのは、豊前市の史跡ガイドボランティアの方々のおかげです。
初めて登った山の中は、大きな鳥居、岩窟の下の石仏、自然石が積まれた約850段の石段と、まさに異世界でした。



その体験から、住んでいた北九州市でも低山登山に出かけるようになりました。




北九州市の皿倉山と権現山に登るようになり、自分が知らなかっただけで、自然や歴史が身近に残っていたことを知ります。

ただし歴史といっても、詳しくはよく分からないことが多かったのですが、この時は今ほど気にしてはいませんでした。
空海ゆかりの「筑前一の霊場」のあと皿倉山祈願塔、権現山奥宮コースのスタート地点の市瀬鷹見神社の御祭神が木の国熊野からの勧請であること。
でも確かな違和感となって、残り続けていたのです。
無意識に集めていた違和感の「点」
宗像大社から始まった史跡巡りは、低山にも及び、当時住んでいた北九州を拠点に、国東半島や臼杵などの大分県のほか、佐賀県・長崎県など様々な地域にも及びました。



子供が都市部で過ごすよりも自然が多く、人が少ない場所を好んだこともあり、家族旅行の行く先にもなりました。
そうやって出かけていくと、小さな違和感を感じることもありました。

たとえば大分県の国宝「臼杵磨崖仏」が作者不明・造られた理由も不明なままであること。
この臼杵石仏についての謎は旅の最後でつながりました。
2021年春、豊前市に移住
当時、福岡県内の居住地を探していたところ、豊前市も我が家の条件に一致しました。
求菩提山に登った子供が「豊前市がいい」と言うので豊前市に移住することがで決まりました。
移住した豊前市やそれに周辺の市町村は、歴史や文化が色濃く残り、このエリアに伝わる豊前神楽や史跡を撮りに多くの場所に出向きました。


そして史跡を巡っているうちに、また意図せず小さな違和感を拾い集めていくことになりました。
それらの違和感は後述する「右三つ巴紋」でつながりを見せることになります。
2023年ごろ 国東半島の北端の神社の画像で「右三つ巴紋」を初めて認識
豊前市以外にも土地勘ができていた頃、偶然目にしたある神社の紋が、それまでとその後の小さな違和感をつなぐ鍵となりました。
GoogleMapで見つけたその神社の紋の形はいわゆる三つ巴紋でしたが、よく見ると宇佐神宮や多くの八幡神社で使われている巴紋とは違う向きだったのです。


宇佐神宮やその他多くの八幡神社は「左三つ巴紋」で、私がGoogleMapで見つけた巴紋は「右三つ巴紋」だったのです。
右三つ巴紋を見つけた伊美崎社の鳥居は「伊美崎社 菊理媛命」と刻まれていました。
宇佐神宮の御祭神は「八幡大神(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)、神功皇后(息長帯姫命)」の三柱です。
菊理媛命は、北陸を中心に数多く祀られる白山神社の御祭神です。
なぜ宇佐神宮と関わりが深い国東半島で、宇佐神宮と逆向きの巴紋と、宇佐神宮と異なる御祭神が祀られていることを示すのか。
私は歴史の専門家ではありませんが、かつてプログラマーをしていた経験から、この向きと御祭神の違いが大きな異常値に感じられたのでした。
この右三つ巴紋が、私にとって、それまで感じていた違和感の理由を知るための「最初のキーワード」となりました。
私はこのキーワードを手がかりに、宇佐神宮とは異なる信仰を持つ勢力、そしてそこから繋がる水の女神、瀬織津姫など多くが連なる謎を追うことになりました。
豊のくにあと歴史の謎:連載2につづく

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