2024年になってようやうく、史跡の中でも「古墳」へ積極的に足を運ぶようになった。
それまであまり行かなかった理由は「お墓なので何か怖い」「無関係なので畏れ多い」
そう思っていたけど、ある時古墳にはまるイラストレーターの女性のブログを見つけ、読んでいるうちに「そんなに怖いものではないのかも」と、興味が湧いて出た。
なんたって古墳といえば北部九州にはいたるところにある。
昔住んでいた大阪のお隣、奈良県もそんな感じだった。
豊前市から行橋市の八雷古墳にナビをセットして1時間ほど、のどかな田園が風景の先にこんもりとした緑の丘が見えた。
古墳の周りには民家も結構あった。
ここならではの風景だと思いながら、特に難なく、駐車場に到着できた。
階段を登った先に神社の社殿が見えた。
古墳の上の神社「八雷神社」だ。
境内の落ち葉は掃除されていて、社殿の彫刻も立派だったから、この地域で大切にされてきたのだろう。
行橋市のホームページによれば、八雷古墳は発掘調査が行われておらず、古墳の周りの出土品から六世紀前半に築造されたのではないかと推測されている。
なぜ発掘調査していないのか謎過ぎるが、その疑問に答えてくれる記事は今のところ見つかっていない。
行橋市指定史跡
市内西部、観音山(標高232m)から東に伸びた長木地区の丘陵の上に、日本神話に現れる八柱の雷神を祀った八雷神社が鎮座しています。社殿の後ろの高まりが八雷古墳で、社殿に向かって右側が後円部、左側が前方部です。
独特な形の墳丘
墳丘は市内の古墳で最大の長さ74mで、周囲には濠と周堤がめぐり、周堤まで含めると全長は100mに及びます。前方部が極端な裾広がりで、幅76mと長さよりも幅が広い独特な形をしています。この古墳の形は、清寧天皇の陵墓と伝わる白髪山古墳(大阪府羽曳野市)を3分の2に縮小した設計だと考えらます。八雷古墳に葬られた人物が、ヤマト政権と強いつながりを持っていたことがうかがえます。
出土埴輪
八雷古墳は発掘調査を行っていませんが、神社建設時の出土や表面採集で埴輪が破片も含め十数点が見つかり、その特徴や墳丘の形から、この古墳は6世紀前半に築造されたと推測されています。
行橋市ホームページから引用
アクセス
〒824-0058 福岡県行橋市長木758