先月、奈良を訪れました。
東大寺や手向山八幡宮を歩いた旅でしたが、出発前には、ほかにも行ってみたい場所を調べていました。
そのひとつが、明日香村にある石舞台古墳です。
結局、今回は訪れることができませんでした。
それでも、地図を見ながら周辺を調べていると、意外なことに気づきました。
明日香村から、吉野が思っていたよりも近かったのです。
私はかつて、近畿地方に住んでいたことがあります。
子どもの頃には吉野にも行きました。
けれど、その頃の私は、明日香村と吉野がこれほど近い場所にあるとは意識していませんでした。
今回、改めて地図を見たことで、子どもの頃に訪れた場所と、歴史のなかで知っていた場所が、ひとつの地図の上につながりました。
飛鳥と吉野を結ぶ古道
明日香村と吉野の間には、古くから人々が行き来した道があります。
そのひとつが、芋峠(いもとうげ)を越える道です。
奈良県の資料によると、芋峠は明日香村栢森と吉野町千股を結ぶ峠です。
大海人皇子が、壬申の乱の前に吉野宮へ入る際に越えた峠とも考えられています。
672年、大海人皇子は近江朝廷との対立のなかで吉野へ入り、翌年、壬申の乱で兵を挙げました。
また、のちに持統天皇となる鸕野讃良皇女も、吉野への行幸を重ねたことが知られています。
明日香村の石舞台古墳周辺から、吉野へ向かう古道をたどることができる。地図を見て初めて、その道の存在を具体的に意識しました。
吉野と修験道
吉野について調べていると、もうひとつ気になることがありました。
吉野・大峯は、修験道を語るうえで重要な霊場です。
修験道は、山岳信仰を基盤に、仏教や道教などの要素が結びつきながら形成されてきた、日本独自の宗教的な実践です。
その開祖として伝えられるのが、役行者(えんのぎょうじゃ)、役小角とも呼ばれる人物です。
伝承では、役行者は金峯山で修行し、蔵王権現を感得したとされます。
吉野山から大峯山へと続く山々は、山伏たちが修行を行う場となってきました。
ただし、修験道が現在知られるような宗教として形づくられていく過程は、役行者ひとりの時代だけで説明できるものではありません。
古くからの山岳信仰に、仏教などの要素が重なり、長い時間をかけて展開してきました。
都と吉野のあいだ
飛鳥の都と吉野の関係は、修験道が成立する以前から、歴史のなかに見えてきます。
大海人皇子が吉野へ入ったこと。持統天皇が吉野への行幸を繰り返したこと。
吉野は、都から遠く離れた山間の地でありながら、古代の政治や皇族の動きと関わる場所でもありました。
その一方で、吉野・大峯の山々は、山岳修行の場としても重要な位置を占めるようになります。
政治の歴史と、山の信仰の歴史。
それぞれをたどっていくと、同じ場所が異なる角度から見えてきます。
今回調べたことだけで、古代の道と修験道の成立を直接結びつけることはできません。
けれど、飛鳥と吉野のあいだに古道があり、そこを人々が行き来していたことは、地図と史跡から確かめられる歴史です。
地図を見直す
子どもの頃に訪れた吉野。
そして、今回の奈良旅行で行ってみたいと思った明日香村。
私のなかでは別々の記憶だった場所が、地図を見直すことでつながりました。
現地を歩けば、また違ったことに気づくかもしれません。
今回は訪れることができませんでしたが、石舞台古墳の周辺から吉野へ続く道を、いつか自分の足でたどってみたいと思います。
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