以前、山口県の高速道路のサービスエリアで、ある張り紙が目に留まりました。
そこに書かれていたのは、奈良の大仏が、多くの技術者たちの働きによって造られたという話でした。
奈良の大仏といえば、歴史の教科書で習った聖武天皇や、東大寺の大仏開眼供養を思い浮かべます。
けれど、その巨大な仏像を実際に造ったのは誰なのか。
どのような技術が使われ、どれほど多くの人が関わったのか。
私はその張り紙を読んで、いつか奈良を訪れたいと思うようになりました。
そして先月、ようやく東大寺を訪ねる機会がありました。
大仏造立を支えた技術者
東大寺の盧舎那仏像、いわゆる奈良の大仏は、聖武天皇の発願によって造立されました。
造立には、多くの人々が関わっています。
そのなかで、技術面の中心を担った人物のひとりが、国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)です。
公麻呂は、百済から渡来した国骨富の孫にあたると伝えられています。
大仏の鋳造に携わり、その後、造東大寺司の次官を務めました。
また、大仏の鋳造には高市大国らの鋳造技術者が関わり、ほかにも仏師や大工など、さまざまな役割を担う人々がいました。
大仏造立は、ひとりの名工が完成させた仕事ではありません。
技術を持つ人々と、それを支える多くの労働力によって進められた大規模な事業でした。
大仏を黄金色にした技術
現在の大仏は落ち着いた金属の色をしていますが、造立当初は金メッキが施され、黄金色に輝いていました。
その金メッキに使われたのが、金と水銀を混ぜた金アマルガムを利用する方法です。
金を水銀と混ぜて大仏の表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させると、表面に金が残ります。
こうして金属の仏像を金色に仕上げました。
この方法では、水銀を加熱する工程が必要です。
水銀は蒸気を吸い込むことで健康被害を起こす危険があり、換気や保護の設備が十分でなかった当時の作業環境は、危険なものだったと考えられます。
実際に、2019年に発表された研究では、大仏の金メッキ作業で水銀中毒が発生した可能性を、労働衛生の観点から検討しています。
ただし、当時の職人たちが実際にどれほど中毒を起こしたのか、確かな記録によって明らかになっているわけではありません。
目の前の大仏の、その向こう側
大仏の造立には、仏師や鋳造技術者だけでなく、多くの人々が関わりました。
名前が伝わっている人物もいれば、記録に残らなかった人々もいたはずです。
私が高速道路のサービスエリアで張り紙を読んだとき、教科書で知っていた大仏の歴史に、これまで知らなかった側面があることに気づきました。
大仏が造られたという事実は知っていても、それを実現した技術や、作業に携わった人々のことまでは、ほとんど意識していなかったのです。
先月、奈良を訪れたときには、東大寺の鎮守社である手向山八幡宮の周辺にも足を運びました。
そこで見つけたのは、菊のような花の意匠や、鬼瓦でした。

大仏造立の技術者たちについて知りたいと思って訪れた奈良で、私はまた別のものに目を留めていました。
歴史をたどる入口は、必ずしも大きな出来事や有名な人物だけではないのかもしれません。
旅の途中で見かけた張り紙。
そこから訪ねてみたいと思った場所。
実際に歩いて見つけたもの。
ひとつの場所を訪ねることで、知らなかった歴史に触れ、また別の疑問が生まれてくる。
今回の奈良への旅も、始まりは小さなきっかけでした。
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