気になった國玉神社の住所の一部「岩嶽山」
最近、別の神社を調べていて、福岡県神社誌で見つけた、豊前市の国玉神社の住所の記載を見て「おや」と思いました。
郷社 國玉神社 築上郡岩屋村大字求菩提字岩嶽山
求菩提山とは、豊前市を代表する山で、かつて修験道が栄えた山です。
多くの修験者とのその家族が暮らしたそうです。
国玉神社は、その求菩提山の山中にある神社です。
↑社務所ではなく「中宮」です。
上宮と中宮があります。
求菩提山なのに、なぜ住所が「岩嶽山」なのだろうと不思議に思ったことは、以下の記事にまとめました。

さらにこの記事では、福岡県神社誌で気になった2つ目を記録します。
1つ目は↓

福岡県神社誌で確認した國玉神社の情報
福岡県神社誌から引用
郷社 國玉神社 築上郡岩屋村大字求菩提字岩嶽山祭神 顯國靈神、伊娤諾命、伊奘毌命
由緒 神武天皇東征ましまさんとして先づ筑紫を平げ給ふ時、此山に於て天神地祇を祭り給ひし所にして、其地を人皇が嶽と號す。蓋し天皇の龍駕し奉る地なるが故御尊號をし奉りたる可し。 絶頂には常に奇雲たなびき夜に金光起り衆略を照す、遠近之を仰ぎ見て奇異の思をなす事幾春秋なるを知らず、是偏に神明の御威徳により然る事を疑ふ可からざるなり。人皇二十六代繼體天皇二十年丙午歳此地に大國主命を鎭座し顯國靈神と祭らせ奉れりと云ふ。爾來上下の敬信厚 く又靈験枚擧に暇あらず。元正天皇養老四庚申歲伊娤諾命 伊奘毌命の二柱の神を相殿として崇祭し給ふ。同 御蒙古渡海にして天下大に驚動す、朝廷諸社に奉幣して彼の敵兵調伏の事を祈らしむるに當り、當社も亦勅宣を蒙り祈願の事を奉ず、事治るの後朝廷藤原朝臣 武知麿を以て奉饗せらる。其後宣旨を稟け銀護國家の道場となし山を求菩提と改めたり。崇德帝の御臓の時 菩提山を中異せし頼巌上人、勅旨に依り参内し玉體を加持し奉り、同帝の御宇大旱に請雨の法を修めたるに是亦寄験ありければ、爾度の神德に叡感淺からざりしと云ふ。 康治元壬戌年勅により天下泰平國家安全の祈禱をなす、故に近衛院の宣旨あり御煩平癒の叡感に依り、此山の社堂を修造し(此年求菩提山を中興せし頼巌1人法華経全部を銅板二十三枚に彫造し二重の賽塔に納めらる今??として存ぜり) 應永の頃勅願所として守護不入領三十町、先規之通り探麗大内よりも付せらる、永享三年內世の證文、竝に三十町の地坪付百姓名寄其他文明三年辛卯十一月二日、明應六年二月十六ー先規の通り云々證書類數あり、尤も兵胤により古器古書を失ひたるせの数を知らず、其の後兵亂により古格を失ふこと多しと雖も、黒田氏細川氏領地のも山領を付せらる。夫より小笠原氏領地となり是先規の通り付せらる、上世に在では總て官祭に隔す。寛政二年社殿燒失、同三年九月領主小笠原家より建設。明治 四辛未神社改正の際部御取分神道に復古、明治六 年七月九日郷社に定めらる。例祭日三月二十八日二十 九日にして二十八日に浮殿に渡御、二十九日神前に於て御田植の行事を執行ひて後御還幸するの例なり。
例祭日 三月二十九日、九月九日
主なる建造物 社殿神殿、拜殿、假殿、附屬建物、社務所、寶物庫、神輿庫、幣殿
主なる寶物 銅版經、經筒、緣起、古文書、扁額、獅子面
境內坪數 一千三百八十六坏
氏子區域及戶數 大字求菩提 三十一戶
境內神社 日吉神社 (中宮)
鬼神社
貴船神社、稻荷神社
末社 籠水神社、愛宕神社、事比羅神社、豐照神社
郷社 國玉神社(くにたまじんじゃ)
所在地: 築上郡岩屋村大字求菩提字岩嶽山(現:福岡県豊前市)
祭神
顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、伊娤諾命(いざなぎのみこと)、伊奘冉命(いざなみのみこと)
由緒
神武天皇が東征にあたり、まず筑紫(九州)を平定された際、この山において天神地祇(あらゆる神々)を祀られた場所であり、その地を「人皇が嶽(にんこうがたけ)」と呼ぶ。おそらく天皇の乗り物(軍勢)が留まった地であるため、尊称として名付けられたのであろう。
山の頂には常に不思議な雲がたなびき、夜には黄金の光が放たれて山全体を照らす。遠近の人々がこれを仰ぎ見て、奇妙に思い不思議に感じてから、どれほどの年月が過ぎたか分からない。これはひとえに神の威徳によるものであり、疑いようのないことである。
第26代継体天皇20年(丙午の年)、この地に大国主命を鎮座させ、顕国玉神として祀ったと伝えられている。以来、身分の高い者から低い者に至るまで信仰は厚く、その霊験は数え上げればきりがない。
元正天皇の養老4年(庚申の年)には、伊娤諾命と伊奘冉命の二柱の神を相殿(同じ社殿)に合祀された。
また、元寇(蒙古襲来)の際、天下が大きく動揺した。朝廷が諸神社に幣帛を捧げて敵兵退散の祈祷を行わせた際、当社もまた勅命を承って祈願を行った。事態が収まった後、朝廷は藤原朝臣武知麿を派遣して祭祀を執り行わせた。その後、宣旨(天皇の命令)を受けて国家を守護する道場となり、山の名を「求菩提(くぼて)山」と改めた。
崇徳天皇の御代、菩提山を中興した頼厳上人は、勅命により参内して天皇の御身体を加持祈祷した。また、同帝の御代の大干ばつの際に雨乞いの法を修めたところ、これもまた著しい効き目があったため、二度の神徳に対する天皇の感動は浅からぬものであったという。
康治元年(壬戌の年)、勅命により天下泰平と国家安全の祈祷を行った。これに対し近衛院から宣旨があり、天皇の病気平癒の感動によって、この山の社殿を修築した。(この年、求菩提山を中興した頼厳上人は法華経の全てを銅板23枚に刻み、二重の石塔に納めた。今も現存している)。
応永の年間に勅願所(祈願所)となり、守護も立ち入ることのできない領地30町を、以前からの例に従って探題・大内氏からも寄進された。永享3年の内示の書状や、30町の地坪付(土地台帳)、百姓の名寄帳、その他文明3年、明応6年の「先例の通り」とする証書類が多数ある。もっとも、戦乱によって失われた古器や古文書は数知れず、その後の兵乱で古くからの格式を失うことも多かったが、黒田氏・細川氏の領地時代にも山領を安堵(付与)された。その後、小笠原氏の領地となっても先例通りに安堵された。昔はすべて官祭(公的な祭り)として執り行われていた。
寛政2年に社殿を焼失したが、翌3年9月に領主の小笠原家によって再建された。明治4年の神社改正の際、神仏分離によって神道に復古し、明治6年7月9日に郷社に定められた。
例祭日は3月28日・29日であり、28日に「浮殿」へと神輿が渡り、29日に神前で「御田植」の行事を執り行った後に還幸するのが通例である。
例祭日: 3月29日、9月9日
主な建造物
社殿、神殿、拝殿、仮殿、附属建物、社務所、宝物庫、神輿庫、幣殿
主な宝物
銅板経、経筒、縁起、古文書、扁額、獅子頭
境内坪数: 1,386坪
氏子区域および戸数: 大字求菩提 31戸
境内神社: 日吉神社(中宮)、鬼神社、貴船神社、稲荷神社
末社: 籠水神社、愛宕神社、事比羅神社、豊照神社
「日吉神社(中宮)」について
神社誌を読むと、国玉神社の境内社に「日吉神社(中宮)」と書かれています。
日吉神社といえば豊前市内では1ヶ所(豊前市公式ウェブサイトから引用)。
大河内字宮の前の日吉神社です。

日吉神社の情報は、以下です。
福岡県神社誌より
村社 日吉神社
築上郡岩屋村大字
大河内字宮の前
祭神 大己貴命、國常立命、惶根命、大山祇命、大山祗命、倉稻魂神
由緒不詳、明治六年七月九日村社に定めらる。 大山祇神は字宮の下に大山祇神社、大山祇命は字山の神に大山祇神社、稲倉魂神は字栗の花に稲荷神社とし 祭祀りしを明治四十年七月二十六日合併許可。
大山祇神社 日吉神社 七社神社
由緒は不詳ですが、求菩提山の国玉神社には、日吉神社中宮の記載がある。
これが何を意味するのか。
どちらも明治時代が関係するのか。日吉神社では山人(やもど)走りという珍しい神事が行われ、山に帰る神様をお見送りしその後に神楽が奉納されるそうです。
神社の前に「まつり」があるというのなら、ここの神社には、やはり何かあった。
そう思えてなりません。

