先日、久しぶりに馬城山伝乗寺跡地を訪れました。
現在、ここに残っている真木大堂は、かつての六郷満山本山本寺・馬城山伝乗寺の堂宇の一つと伝えられています。

伝乗寺は、六郷満山の中心的な寺院として栄えた大寺院だったとされますが、創建について確かな文献が残っておらず、現在では「幻の寺」とも呼ばれています。(豊後高田市ホームページ)
私が今回、改めて気になったのは、その伝乗寺跡に残る「菊」でした。
鐘撞堂の瓦にあったもの
以前訪れたときにも、この場所を見ていました。
けれど、今回は鐘撞堂の瓦をじっくり見ていて、ある意匠に目が留まりました。

瓦に刻まれていたのは、菊の花のような意匠と、右三つ巴紋。
しかも、この二つは同じ瓦に刻まれていました。
菊のような花と、右三つ巴。
私はこれまで、北部九州や奈良などで、菊のような花と三つ巴紋の組み合わせを何度か見てきました。


だから今回も、思わず足を止めました。
ただ、この瓦の意匠がいつ作られたものなのか。
菊の意匠が何を意味するのか。
右三つ巴紋との組み合わせに、何か意味があるのか。
そこまでは、まだ分かりません。
伝乗寺には「菊花の御紋章」の由来が残っている
ところが、真木大堂の旧本堂にある看板を改めて読むと、ここには別の「菊」が残っていました。

看板には、「菊花の紋章御下賜由来」とあります。
菊花の紋章御下賜由来
この本堂は永い間仏像を安置してあった旧本堂で、正面 朱塗りの扉には皇室の御紋章があります。
これは今から約七百年前、鎌倉時代に蒙古軍が文永十一 年と弘安四年に襲来した時、執権鎌倉幕府は教書を発し、これをうけて豊後守護職が六郷満山の寺院に対し、異国 降伏の祈祷を行うよう施行状を発しました。
仁聞菩薩・八幡大菩薩の霊場であり、六郷満山本山本寺として七堂伽藍と三十六坊の霊場を有し、六郷満山の 長所(学問所)であった馬城山伝乗寺で、国難を救うため長期にわたり、異国降伏の大祈祷が行われました。 その思賞として弘安八年十月十六日、将軍家を経て朝廷より菊花の御紋章が下賜されたもので、全国でも他に類例をみることができません。今往時を想起したとき まことに感無量なるものがあります。
そして、約七百年前、蒙古襲来の際に六郷満山の寺院で異国降伏の祈祷が行われたこと。
その中で馬城山伝乗寺でも長期にわたる祈祷が行われ、その思賞として、弘安八年十月十六日に将軍家を経て朝廷から菊花の御紋章が下賜された、と記されています。
これは、あくまで現在残されている由緒書の説明です。
この由緒そのものについて、ここで歴史的事実として検証することはしません。
ただ、少なくとも現在の真木大堂には、伝乗寺と「菊花の御紋章」を結びつける由緒が残されている。
それは、今回初めて気づいたことではありません。
でも、鐘撞堂の瓦を見たあとに改めて読むと、少し気になりました。
もう一つの「菊」
そして、もう一つ。
馬城山伝乗寺を調べていると、「喜久山」という名前が出てきます。
豊後高田市の文化財資料では、真木大堂の前身にあたる寺院として「喜久山」が紹介され、現在も「菊山」という名前で伝わっているとされています。(豊後高田市ホームページ)
つまり、この場所には、
「馬城山伝乗寺」
という名前だけではなく、
「喜久山」
そして、
「菊山」
という名前も残っている。


以前、馬城山の山頂から周囲を眺めたとき、私が気になったのもこの山でした。
馬城山から見える山。
かつて「菊山」と呼ばれていた山。
その山を、伝乗寺が遥拝していたともいわれています。
菊、菊、そして菊
こうして並べてみると、いくつかの「菊」があります。
鐘撞堂の瓦に刻まれた、菊のような花。
そこに一緒に刻まれていた右三つ巴紋。
旧本堂に残る、「菊花の御紋章」を下賜されたという由緒。
そして、かつて「喜久山」と呼ばれ、現在も「菊山」という名前が伝わる山。
どれも、それぞれ別の話なのかもしれません。
瓦の花が本当に菊を表しているのかも、今の私には分かりません。
「菊花の御紋章」と瓦の意匠が直接関係しているのかも分かりません。
「菊山」という名前が、どのような由来で付けられたものなのかも、まだ調べ切れていません。
ただ、同じ場所を久しぶりに訪れたことで、以前は見えていなかったものが見えてきました。
今回見つけたこと
今回見つけたのは、菊のような花。右三つ巴紋。菊花の御紋章の由来。
そして、菊山という名前。
それぞれが何を意味するのかは、まだ分かりませんが、久しぶりに訪れた馬城山伝乗寺跡で、また一つ、気になる点が増えました。
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