王権を支えた忌部氏・中臣氏と、藤原氏の台頭
神社を訪ねると、さまざまな神様の名前や、古くから続く祭祀に出会います。
その背景を知ろうとすると、神様の由来だけでなく、古代の政治や氏族の歴史にも目を向けることになります。
現在では、政治と宗教は別々の領域として考えられています。しかし、古代において、祭祀は政治と切り離されたものではありませんでした。
神々を祭ることは、王権の正統性を示し、国や地域の安寧を願い、人々をまとめるための重要な営みでもあったのです。
今回は、古代の王権と祭祀の関係を、忌部氏・中臣氏、そして藤原氏の歴史から見ていきます。
古代の王にとって、祭祀は統治の一部だった
古代の日本では、政治を担う王と、神々を祭る祭祀は、現代のように明確に分かれていたわけではありません。
古墳時代には、大王を中心とする政治的なまとまりが形成されていきました。
大王は、軍事や外交、土地や人々の支配だけでなく、神々への祭祀にも深く関わっていました。
國學院大學博物館の解説によると、古墳時代には、共通した葬祭を通じて社会を統合する体制が広がり、古墳祭祀と並行して、後の神道につながる祭祀の原型も形成されていきました。
また、7世紀後半になると、律令制度の整備とともに、朝廷の祭祀も制度化されていきます。
その中で重要視されたものの一つが、大嘗祭です。
大嘗祭は、天皇の即位に伴って行われる祭祀です。天皇自らが新穀などを神に供え、国家の安寧や五穀豊穣を祈る重要な儀式として位置づけられていました。
つまり、王権を担う者が神々を祭ることは、国を治めることとも深く結びついていたのです。
ここでいう王権の担い手は、古い時代には「大王」と呼ばれ、後の時代には「天皇」と呼ばれるようになります。
「大王」から「天皇」へと呼称が変わった時期については諸説があり、成立過程には現在も議論があります。そのため、古代の出来事をすべて「天皇」という言葉で一括りにしないことも大切です。
王権の祭祀を担った忌部氏と中臣氏
朝廷の祭祀には、専門的な役割を担う氏族が関わっていました。
その代表的な氏族が、忌部氏と中臣氏です。
忌部氏は、古くから王権の祭祀に携わった氏族です。
『古事記』や『日本書紀』に登場する天太玉命(フトダマノミコト)は、忌部氏の祖神とされています。
天岩戸神話では、天照大神が岩戸に隠れた際、天児屋命と天太玉命が祭祀に関わる場面が描かれています。
天児屋命は中臣氏の祖神、天太玉命は忌部氏の祖神とされ、両氏が神事に関わる存在として伝えられてきました。
忌部氏は、祭祀に必要な玉や鏡、幣などの祭具を調える役割を担ったと伝えられています。
また、地方の忌部氏ともつながり、出雲・紀伊・阿波・讃岐などに関係する人々から、祭祀に必要な物資を集めていたとされています。
一方、中臣氏は、祝詞の奏上や祓いなどに関わりました。
律令制のもとでは、祈年祭や月次祭において、中臣氏が祝詞を奏上し、忌部氏が幣帛を分けるという役割分担が定められていました。
幣帛とは、神に奉る布や織物などの供え物です。
両氏は、同じ祭祀に携わりながら、それぞれ異なる役割を担っていたのです。
中臣氏から藤原氏へ
ここで、藤原氏の歴史が関わってきます。
藤原氏の祖とされるのが、中臣鎌足です。
中臣鎌足は、645年の乙巳の変で中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我入鹿を倒し、その後の政治改革を進めた人物です。
鎌足は亡くなる直前の669年、天智天皇から「藤原」の姓と大織冠を授けられました。
この時点の藤原氏は、まだ中臣氏の一部だったと考えられています。
これが、後の藤原氏の出発点になりました。
鎌足の子である藤原不比等は、朝廷で政治的な力を強め、大宝律令の制定などにも関わりました。
その後、藤原氏は朝廷の中で大きな影響力を持つようになり、奈良時代から平安時代にかけて、政治の中枢を担う氏族へと成長していきます。
ただし、ここで注意したいのは、藤原氏と中臣氏をそのまま同じものとして扱わないことです。
鎌足が藤原の姓を賜った時点では、藤原氏はまだ中臣氏の一部だったと考えられています。
しかし698年、文武天皇の時代に、藤原の姓は不比等の子孫に限られることになりました。
不比等の再従兄弟にあたる意美麻呂(おみまろ)らは中臣氏にとどまり、古くからの祭祀を担う家として神祇官で活躍します。
意美麻呂は神祇伯を務め、その子の清麻呂は、のちに大中臣氏の祖となりました。
こうして、政治の世界で力を強めていった藤原氏と、朝廷の祭祀を担い続けた中臣氏は、それぞれ異なる立場を歩んでいくことになります。
忌部氏が残した『古語拾遺』
忌部氏と中臣氏の関係を知るうえで、重要な史料があります。
それが、807年に斎部広成(いんべのひろなり)が撰上した『古語拾遺』です。
忌部氏は、時代が下るにつれて、朝廷の祭祀における職掌をめぐり、中臣氏との間で争うようになっていました。
735年には、忌部氏の人物が奉幣使に任じられるよう願い出ています。
さらに806年には、幣帛使の任命をめぐって、中臣氏と忌部氏の間で争いが起こりました。
中臣氏と忌部氏は、それぞれ自らの氏族が担ってきた役割を挙げて、主張を述べ合いました。
この争いは朝廷にも持ち込まれ、その裁定が下されることになります。
なお、忌部氏は803年に氏の名を「斎部」と改めたとされています。
『古語拾遺』の撰者が「斎部広成」と記されるのは、このためです。
こうした経緯を背景に、翌807年、斎部広成は『古語拾遺』を撰上します。
この書物には、神代から続く忌部氏の祭祀に関する伝承や、朝廷における自氏の役割が記されています。
ただし、『古語拾遺』は、単なる古代の出来事を記録した歴史書ではありません。
当時の祭祀をめぐる状況の中で、忌部氏が自らの由緒や役割の正当性を訴えるためにまとめたものでもあります。
そのため、そこに記された内容をすべて客観的な事実として受け取るのではなく、忌部氏側の主張が含まれていることを踏まえて読む必要があります。
一つの氏族が、どのように自らの歴史を語り、朝廷に対してその役割を主張したのか。
『古語拾遺』は、そうした当時の状況を知るための重要な史料でもあります。
祭祀の歴史を知ると、神社の見え方が変わる
古代の政治と祭祀は、別々のものではありませんでした。
王権を担う大王や天皇は、神々を祭ることを重要な役割とし、その祭祀を支えるために、忌部氏や中臣氏といった氏族が関わっていました。
そして、政治の世界で藤原氏が台頭していくことは、朝廷の祭祀を担う氏族の立場にも関係していきます。
現在、私たちが神社で目にする祭具や神事、祝詞、幣帛などにも、こうした古代の祭祀制度につながるものがあります。
神社の歴史をたどるとき、祭神の由来だけでなく、誰が祭祀を担っていたのか、どのような仕組みの中で神事が行われていたのかにも目を向けてみると、違った景色が見えてくるかもしれません。
神社は、信仰の場であると同時に、長い歴史の中で政治や社会の変化とも関わってきた場所なのです。
参考資料・関連情報
本文の作成にあたり、以下の大学・博物館・公的機関の解説を参考にしました。
- 國學院大學博物館「神道[第1章]神道祭祀の淵源」
- 國學院大學博物館「考古[第5章]王権と『神道』の形成―古墳時代―」
- 國學院大學 古典文化学事業「忌部首」
- 國學院大學 古典文化学事業「天の石屋②」
- 國學院大學 古典文化学事業「布刀玉命」
- 國學院大學デジタルミュージアム「春日祭神」
- 奈良国立博物館「中臣(藤原)鎌足」
- 奈良県「専門家前編」
- 奈良女子大学「古語拾遺」資料解説
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