中津祇園の上祇園のルーツである「大江八幡宮」の古い名前は、「大江天富宮」と伝えられています。

この「天富」という名前を見たとき、私は驚きました。
「天富」という名は、古代の祭祀氏族・忌部氏との関わりを思わせるからです。
大江天富宮に祀られていたのは、忌部氏の祖神「天富命」でした。
その後、中世に八幡神を合わせ祀るようになり、「大家八幡宮(大江八幡宮)」と呼ばれるようになったと伝えられています。



これまで私は、豊前や国東半島で、宇佐神宮と逆向きの「右三つ巴紋」を追いかけてきました。
その中で最初に印象に残った場所の一つが、国東半島北端の伊美でした。

伊美の先端の岬には、小さな神社「伊美崎社」がありました。
そこに薄く残っていた右三つ巴紋。
最初は、それが何を意味するのか分かりませんでした。
ところが調べていくうちに、「伊美」という地名は「忌み地(斎地)」に由来すると伝えられていることを知ります。
「神を迎えるための特別な場所」。
そう考えると、この土地の見え方が少し変わってきました。
伊美周辺の宮地嶽神社、鬼塚古墳
伊美の周辺には、宮地嶽神社があります。
鬼塚古墳もあります。
そして、右三つ巴紋が残る神社があります。
一つひとつは別々の存在です。
しかし、それらを地図の上に並べてみると、この土地には古い祭祀の記憶が静かに残っているようにも感じられます。

さらに豊前へ目を向けると、大江八幡神社の古い社名「大江天富宮」が現れます。
もし、この「天富」が忌部氏と関わる名前だとすれば、旧豊前国にも忌部氏、あるいは忌部と深く関わる人々がいた可能性が見えてきます。
これまで旧豊前エリアでは、中臣氏やその後の藤原氏との関わりが語られることが少なくありません。
もちろん、その存在は重要です。
しかし一方で、土地を歩いていると、別の人々の姿も浮かび上がってきます。

熊野磨崖仏を刻んだ石工。
船を造る人々。
鉄を扱う人々。
機を織る人々。
ため池を築く人々。

祭りに必要な道具を整え、神を迎える場所をつくる人々。
こうした「形あるもの」を残した人々の存在です。
古代において、忌部氏は祭祀に必要な素材や祭具を調え、神を迎える場を整える役割を担ったとされています。
もし豊前や国東に、そのような人々が暮らしていたとしたら。
石や鉄、池や神社に残る痕跡も、少し違った景色として見えてきます。
もちろん、現時点で断定できることは多くありません。
けれど、大江天富宮という古い社名。
「伊美」という地名。
そして、この土地に残る数々の痕跡。
それらを結び合わせると、これまであまり語られてこなかった人々の存在が、少しずつ輪郭を現し始めているように思えるのです。
歴史は、名前だけが残るわけではありません。
ときには、地名として。
ときには、石として。
そして、ときには、神社の古い名前として。
土地は、静かに記憶を残しているのかもしれません。



