藤原氏と大祓――中臣祓と瀬織津比売

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神社で参拝するときや、神事の場面で耳にすることのある「祓え給い、清め給え」という言葉。

また、6月と12月には、多くの神社で大祓(おおはらえ)が行われます。

大祓は、日々の暮らしの中で知らず知らずのうちに生じた罪や穢れを祓い、清らかな状態に戻るための神事です。

その大祓に関係する祝詞が、大祓詞(おおはらえのことば)です。

実は、この大祓には、古代の朝廷で祭祀を担っていた中臣氏が深く関わっていました。

そして、中臣氏からは、後に政治の世界で大きな力を持つ藤原氏が生まれています。

今回は、藤原氏と大祓の関係、そして大祓詞に登場する瀬織津比売について見ていきます。

目次

古代の国家祭祀として行われた大祓

大祓は、個人の罪や穢れを祓うだけの神事ではありませんでした。

古代の朝廷では、国家や社会全体の罪や穢れを祓う、公的な祭祀として行われていました。

律令制度のもとでは、毎年6月と12月の晦日に大祓を行うことが定められていました。

6月の大祓は、現在の夏越の祓(なごしのはらえ)につながるものです。

『延喜式』には、大祓の際に親王以下の官人たちが朱雀門に集まり、祝詞が読まれたことが記されています。

つまり、大祓は宮廷で行われる国家的な儀式だったのです。

当時の人々にとって、罪や穢れを祓うことは、個人の心身を清めるだけでなく、国家の安寧を保つことにもつながっていました。

前の記事でも触れたように、古代において政治と祭祀は、現代のように明確に分かれたものではありませんでした。

大祓もまた、王権を支える祭祀の一つだったのです。

大祓を担った中臣氏

この大祓に関わっていたのが、中臣氏です。

中臣氏は、古くから朝廷の祭祀を担った氏族で、天児屋命(アメノコヤネノミコト)を祖神としています。

『古事記』や『日本書紀』の天岩戸神話では、天照大神が岩戸に隠れた際、天児屋命が祝詞を奏上する場面が描かれています。

中臣氏は、こうした神事における祝詞の奏上などを担っていました。

律令制度のもとでも、中臣氏は大祓の祝詞を読む役割を担ったとされています。

一方、前の記事で紹介した忌部氏は、祭祀に必要な幣帛を奉る役割などを担っていました。

両氏は、朝廷の祭祀を支える氏族として、それぞれの職掌を持っていたのです。

神祇令などによると、大祓の場では役割が分かれていたとされています。

中臣氏は祓麻(はらえのぬさ)を奉り、百官の男女に大祓詞を宣り下しました。東西の文部(やまとかわちのふみべ)は祓刀(はらえのたち)を奉り、卜部(うらべ)は解除(はらえ)を行いました。

大祓は、複数の氏族がそれぞれの職掌で支える国家的な儀礼だったのです。

中臣氏から藤原氏へ

中臣氏の歴史をたどると、藤原氏につながります。

鎌足は亡くなる直前の669年、天智天皇から藤原の姓を与えられました。

ただし、この時点の藤原氏は、まだ中臣氏の一部だったと考えられています。

その子である藤原不比等は、朝廷で政治的な力を強め、大宝律令の制定などにも関わりました。

698年、文武天皇の時代に、藤原の姓は不比等の子孫に限られることになりました。

不比等の再従兄弟にあたる意美麻呂(おみまろ)らは中臣氏にとどまり、古来の祭祀を担う家として神祇官で活躍します。

意美麻呂は神祇伯を務め、その子の清麻呂は、のちに大中臣氏の祖となりました。

その後、藤原氏は奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の政治に大きな影響力を持つようになっていきます。

ここで押さえておきたいのは、藤原氏の祖である鎌足が、もともと祭祀を担った中臣氏の出身だったということです

そして698年以降は、政治で力を伸ばした藤原氏と、祭祀を受け継いだ中臣氏とに、歩む道が分かれていきました。

大祓詞と中臣祓

現在、神社で用いられている大祓詞は、古くから伝わる祝詞の一つです。

『延喜式』には「六月晦大祓」という祝詞が収められています。

一方、「中臣祓」という名称は、後の時代に広く用いられるようになったものです。

國學院大學の研究資料によると、國學院大學の研究資料によると、大祓詞は後に民間にも広がり、陰陽道や仏教とも結びつきながら、さまざまな儀礼で用いられるようになったと考えられています。

中世以降には、中臣祓についての注釈書も数多く作られました。

つまり、現在私たちが知っている大祓詞や中臣祓は、古代の国家祭祀を起点としながら、長い時間をかけて受け継がれ、変化してきたものなのです。

大祓詞に登場する瀬織津比売

では、その大祓詞には、どのような神様が登場するのでしょうか。

後半に登場するのが、祓戸四神(はらえどのよつのかみ)です。

四柱の神々が、罪や穢れを祓っていく様子が語られています。

最初に登場するのが、瀬織津比売(セオリツヒメ)です。

大祓詞では、高い山から流れ落ちる川の瀬にいる神として描かれています。

瀬織津比売は、川の流れに乗せて、罪や穢れを大海原へと運び去ります。

続いて登場するのが、速開都比売(ハヤアキツヒメ)です。

大海原に運ばれてきた罪や穢れを呑み込みます。

その後、気吹戸主(イブキドヌシ)が根の国・底の国へと吹き放ち、最後に速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)が、それらをさすらわせて失わせると語られています。

大祓詞の中では、次の四柱が一連の祓いを担っています。

  • 瀬織津比売
  • 速開都比売
  • 気吹戸主
  • 速佐須良比売

この四柱は、まとめて祓戸四神と呼ばれます。

注目したいのは、瀬織津比売が最初に登場することです。

川の流れによって罪や穢れを運び去るところから、祓いの過程が始まっています。

水の流れと、罪や穢れを祓うことが結びついているのです。

古代の祭祀から、現在の神社へ

神社で耳にする「祓え給い、清め給え」という言葉。

その背景には、古代の国家祭祀として行われてきた大祓がありました。

そして、大祓の祝詞を読む役割を担った中臣氏は、藤原氏と同じ祖を持つ氏族でもありました。

大祓詞に登場する瀬織津比売は、祓戸四神の最初の神として、川の流れによって罪や穢れを大海原へ運ぶ役割を担っています。

古代の祭祀の歴史をたどると、神様の名前だけでなく、その神様がどのような儀式の中で語られてきたのかも見えてきます。

神社で大祓詞を耳にする機会があれば、そこに登場する神々や、言葉の背景にも目を向けてみてはいかがでしょうか。

参考資料・関連情報

※大祓詞の成立や中臣祓への展開には、時代による詞章や儀礼の変化があります。本記事では、古代の国家祭祀としての大祓と、後世に展開した中臣祓を区別して紹介しています。

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