大正元年に刊行された下毛郡誌に、闇無浜神社の御祭神は元々「安曇磯良」と書かれていた。「豊玉彦」「豊玉姫」は後に合祀

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大正元年に刊行された本の再刊

昭和五十二年十二月二十五日発行の下毛郡史を読むと、大変興味深い情報が記されていました。

元々は「福岡県神社誌」のように「大分県神社誌」があればと思って、図書館に行ったところ、大分県神社誌が見当たらず、その代わりに手に取ったのが「下毛郡誌」でした。

書いている文章は確かに難しいのですが、現代はAIがあるので調べやすくなりました。

さて、「下毛郡誌」に載っていた、大分県中津市闇無浜神社の情報は以下です。

大正元年に刊行されたということは、編纂されたのはおそらくそれ以前の時代に遡るでしょう。

下毛郡誌で「龍王社(=闇無浜神社)」の情報を確認

一二、龍王社
中津闇無濱にあり。祭神は豊玉彥、豊玉姫、安曇磯良なり、何時の頃鎮座せしやを知らざれども兎に角國司時代の古社たるを知るべし、社地闇無濱は上古より既に人口に膾炙せし名所たりし事は萬葉集に左の歌あるを以ても知り得べし
    吾もらが赤裳ぬらして植ゑし田を 苅りて収むるくらなしの濱
    来る蟹のそこら苅置みるめをば いづくに積まん闇無濱
即ち上古より蟹の伏屋の附近に多かりしを知るべく。又稻田の開け居しを想像し得べし、さて祭神安曇磯良に付いて宇佐八幡宮縁起に
「皇后將異國セントス、時白髪の老人 來リ導キ奉リテ曰ク磯鹿島安曇磯良ト云フ者アリ宜シク之ヲ召シテ干珠、滿珠ヲ海神二借ルベシ」
と記せるアツミノイソラの事なり、豊玉彥、豊玉姫を合祀せしは遙に後の事なり、而して龍宮の二神を合祀して後に豊日別龍王と稱するに至りしなり

下毛郡誌 十九ページから引用

現代語訳

中津の闇無浜(くらなしのはま)にあります。祭神は、豊玉彦(トヨタマヒコ)、豊玉姫(トヨタマヒメ)、安曇磯良(アツミノイソラ)です。いつの頃に鎮座したのかは分かっていませんが、とにかく国司時代(古代から中世)より続く古社であることは知っておくべきです。

社地である闇無浜は、太古の昔からすでに人々に広く知られた名所であったことは、万葉集に次のような歌があることからも知ることができます。

「私たち乙女が、赤い裾を濡らして植えた田を、刈り取って収穫する闇無の浜よ」
「寄ってくる蟹が、あちこちで刈り置いてある海松(みるめ)を、どこへ積み上げようか、この闇無の浜で」

つまり、太古より「蟹の伏屋(蟹が多く集まる場所)」の付近に多くの人がいたことを知るべきであり、また、稲田が開けていたことも想像できます。

さて、祭神の安曇磯良については、宇佐八幡宮の縁起(歴史)にこう記されています。
「(神功)皇后が異国へ渡ろうとされた時、白髪の老人が現れて道案内をし、『磯鹿島(しかのしま)に安曇磯良という者がおります。彼を呼び寄せて、海神から干珠(かんじゅ)・満珠(まんじゅ)を借りるのがよいでしょう』と言った」
ここに記されているアツミノイソラのことです。

豊玉彦と豊玉姫を合祀したのは、ずっと後の時代のことです。そして、龍宮の二神を合祀した後に、「豊日別龍王(とよひわけりゅうおう)」と称するようになりました。

奈多八幡宮の元宮司さんの本でも、闇無浜神社の御祭神が「安曇磯良」であったことは伝えられていました。

そしてこの下毛郡誌でも、同じ内容が確認できました。

始まりの龍神は、安曇磯良。

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この記事を書いた人

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豊のくにあと運営者。
福岡県の東の端っこで、写真と文章を綴る人。

2021年に移住。フォトライターとして取材を重ねる傍ら、ひとりでこのメディアを立ち上げ、ZINEの制作・販売まで行っています。
拠点は、古民家を借りて開いた小さな図書館。
Webも、リアルな場所も。どちらも自分の「媒体」として、このエリアの魅力を発信し続けています。

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