宇佐神宮の式年造営を支えた下毛郡(現在の中津市三光臼木)の「斧立(おのだて)八幡神社」について、一般的な文献と現地の記録には明確な相違が存在します。
今回は、現地調査で確認した石碑の文面、そして文献から浮かび上がってきた「川の名前」と「御祭神」の関連性について整理します。
境内の石碑と一般的な記録の相違
一般的な通説や文献では、下毛郡の斧立八幡神社は神功皇后を祀る「三の御殿」の造営担当(木材の切り出し)とされています。

しかし、実際に現地の境内にある由緒書きの石碑を確認すると、そこには八幡大神(応神天皇)を祀る「一の御殿」の造営を担っていたという旨が記されています。
国家的な造営事業において、中心となる一の御殿と三の御殿の担当記述がなぜ食い違っているのか、これまでは単なる誤記か伝承の相違として片付けられがちでした。
「宇佐ふるさとの歴史」における下宮の記述と「御食川」
この相違を考える上で、一つの参考になるのが「宇佐ふるさとの歴史(旧版)」に記載されている下宮の役割です。
同書には、下宮が上宮へ朝夕のお供え物(神饌)を届けるための重要な場所であったとして、次のような記述があります。
「宇佐宮のお祭りの時、下宮の南を流れる清らかな御食川(みけがわ)で米などを洗い、朝夕のお供えやお御酒を用意して、上宮3殿の神前に運んでいました」
ここで記述されている、神聖なお供え物を清めるための川である「御食川(みけがわ)」という名前に注目しました。
一方、斧立八幡神社のそばを流れる山国川は、古くは「御木川(みけがわ)」とも呼ばれていたようです。
「御食」と「御木」。
表記は異なりますが、どちらも「みけがわ」という同じ音を持っています。
宇佐神宮へ供物を届ける神事と、造営用材に関わる地域。
その両方に「みけがわ」という名が残っていることは、単なる偶然ではないのかもしれません。
配祀神にみる「建築と工芸の技術集団」の痕跡
さらに興味深いのは、斧立八幡神社の配祀神です。
同社には、日本神話に登場する手置帆負神(たおきほおいのかみ)と彦狭知神(ひこさしりのかみ)が祀られています。

「古語拾遺」などでは、この二柱は紀伊忌部・讃岐忌部の祖神とされ、木工や建築、工芸に関わる神として知られています。
また、「斧立」という社名そのものも、山を切り開き木を扱う技術集団を連想させます。
こうした点を重ねて見ると、下毛郡一帯には、宇佐神宮の造営に深く関わった技術集団が存在していた可能性も感じられます。
現地の石碑に残された「一の御殿」の記述も含め、通説だけでは整理しきれない地域の記憶が残っているのかもしれません。
まとめ
文献上でシステム化された「三郡の役割分担」は、後世に管理しやすい形で整理された記録である可能性があります。しかし、現地の石碑に残された記述、山国川の古名である「御食川」、そして建築の祖神を祀る配祀神という要素を重ね合わせると、当時の地域と宇佐神宮とのリアルな関係性が見えてきます。
本やネットの二次情報だけに頼らず、現地に残る一次史料(石碑や御祭神)と古い地名を突き合わせることで、通説とは異なる造営の歴史の一面が浮かび上がってきます。
なお境内では、これまで別記事で追ってきた「右三つ巴紋」も確認しました。
こちらについては、別記事で整理したいと思います。
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