宇佐神宮の式年造営とは?大楠・白山・斧立八幡の三神社と、現地で気になったこと

大分県宇佐市の宇佐神宮 本当の御祭神が隠されているとか邪馬台国とか。謎が多い。
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宇佐神宮には、神殿を一定の周期で新しく造り替える「式年造営(しきねんぞうえい)」の歴史があります。

伊勢神宮の式年遷宮ほど知られてはいませんが、宇佐神宮でも古くから造営が行われ、そのために周辺地域が重要な役割を担ってきました。

今回は、宇佐神宮の式年造営について整理しながら、現地を歩く中で気になった点について記録しておきます。

目次

宇佐神宮の式年造営とは

式年造営とは、一定の年数ごとに神殿を修復・再建する仕組みです。

宇佐神宮では、古代から中世にかけて造営が繰り返されてきたとされ、一般には「33年ごと」と紹介されることが多いようです。

ただし、戦乱や財政事情によって延期・中断された時代もあり、常に同じ形で続いていたわけではありません。

こうした大規模な造営を支えたのが、豊前・国東地域の人々でした。

特に重要だったのが、社殿の木材を切り出す役割です。

三つの御殿と、造営を担当した三地域

宇佐神宮の上宮には、

  • 一之御殿
  • 二之御殿
  • 三之御殿

の三つの社殿があります。

一般的には、それぞれの御殿ごとに、担当する郡と神社が対応していたとされています。

御殿祀られている神担当した郡現在の該当神社
一の御殿八幡大神(応神天皇)築城郡大楠神社(福岡県築上町)
二の御殿比売大神上毛郡白山神社(福岡県豊前市)
三の御殿神功皇后下毛郡斧立八幡神社(大分県中津市)

地域ごとに、宇佐神宮の造営を支えていたことが分かります。

なぜこの地域が選ばれたのでしょう。

「宇佐ふるさとの歴史」旧版にみる造営の具体的な記録

「宇佐ふるさとの歴史」の旧版を読み解くと、現在の新版では省略されてしまった、当時の式年造営に関する具体的なプロセスや舞台裏が見えてきます。

そこには、一般的に知られている「33年ごと」という言葉だけでは見えてこない、かなり大がかりな計画の様子が残されていました。

以下、その内容をまとめてみました。

1. 宇佐神宮・上宮の成り立ちと「八幡造」の仕組み

現在、私たちが参拝している上宮(じょうぐう)の3つの御殿は、最初から同時に建てられたわけではありませんでした。 神亀2年(725年)にまず第一殿(応神天皇)が現在の小倉山(亀山)に移され、その後に比売大神の第二殿、最後に神功皇后の第三殿と、100年近くの歳月をかけて順番に整備されていきました。

この3つの御殿の最大の特徴が、屋根が「M」字型に見える独特の「八幡造(はちまんづくり)」です。 これは前後に2つの建物が並ぶ構造ですが、神霊は「昼間は前の建物(外殿)にいらっしゃり、夜は奥の建物(内殿)でお休みになる」という、神々の日々の営みを反映した建築様式であることが文献からも確認できます。その後、周囲に春日社や住吉社、若宮などが整備され、上宮の壮麗な配置が完成していきました。

2. 「33年」の裏にあった、5年がかりの造営計画

10世紀から始まったとされる式年造営ですが、33年目にいきなり新しく建て替えるわけではありませんでした。実は、前後5年におよぶ綿密なスケジュールが組まれていたのです。

  • 28年目(仮殿の造営): まず28年目に、豊後国(現在の大分県大部分)の負担によって、小倉山の北側(現在の頓宮付近)に、正殿とほぼ同規模の「仮殿(かりどの)」を建築します。
  • 30年目(仮殿への遷座): 完成した仮殿へ、一度ご神体をお移しします。
  • 31年目〜32年目(正殿の建て替え): 空になった元の正殿をすべて解体し、2年をかけて新しく建て替えます。
  • 33年目(本遷座): 新しくなった正殿へ、ご神体を仮殿からお戻しします。ここでようやく「式年造営」の全行程が完了します。

この気の遠くなるようなプロセスは鎌倉幕府の滅亡まで続けられましたが、それ以降は時代の動乱とともに維持が困難になっていきました。

3. 九州一円で分担した、莫大なコストと役割

これほどの規模の事業ですから、必要となる財源や資材は巨額でした。 9世紀末ごろまでは地元の豊前国(現在の福岡県東部・大分県北部)が一国で負担していましたが、12世紀中頃からは、大宰府や鎌倉幕府の指示によって、九州9カ国(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩)や壱岐・対馬まで巻き込み、みんなで税を出し合う国家的な大事業になっていきました。

興味深いのは、建物ごとに「造営を担当する国」と「御神木を切り出す場所」が厳格に決まっていた点です。

まず木材の調達に関しては、第一殿は築城郡、第二殿は上毛郡、第三殿は下毛郡の山から切り出して運ぶルールとなっていました。 そして建築そのものの担当は、第一殿が「筑前」、第二殿が「筑後」、第三殿が「肥前」というように、九州の有力な国々がそれぞれの御殿を分担して建てていたのです(ちなみに豊後国は、先述の仮殿だけでなく、南大門の造営も担当していました)。

4. もう一つの社殿「下宮」の維持とやりくり

小倉山の西麓にある下宮(外宮)は、上宮と同じ三殿の神々を祀り、日々の神饌(朝夕のお供え物)を調達・調理したり、お祭りで使う神聖な「薦枕(こもまくら)」を作ったりするための大切な場所でした。

この下宮も古くなれば建て替える必要がありましたが、基本は豊前国が一国で費用を持っていたため、時代が進むとどうしても資金不足に陥ってしまいます。 そこで12世紀後半には、後白河法皇の宣旨(命令)によって、宇佐宮の開墾地である「外宮の田んぼ(常見名田)」をもとに特別な荘園(常見荘)が組織され、その税収で下宮を維持する工夫がなされました。

しかし、14世紀末にはその仕組みも維持できなくなり、室町幕府の九州探題であった今川了春(貞代)が、臨時の税(段銭)を課してなんとか修理しようとするなど、下宮の維持はかなりギリギリの歴史だったようです。上宮の式年造営が途絶えた時期には、ご神体を一度この下宮へ避難させてから上宮の修理を行うなど、下宮は宇佐神宮の文字通りの「最後の砦」として機能していました。

現地で気になったこと

ただ、実際に現地を歩いていると、少し気になる点もありました。

中津市三光臼木の斧立八幡神社です。

一般には、この神社は「三之御殿(神功皇后)」を担当した下毛郡側の神社として紹介されることが多いようです。

斧立八幡神社の石碑

ところが、現地の石碑を読むと、「一之御殿」を造営したという内容が刻まれていました。

つまり、

  • 一般的な説明では「三之御殿」
  • 現地石碑では「一之御殿」

となっていたのです。

もちろん、これは時代による役割変更や、伝承の違い、記録の解釈の差かもしれません。

現時点では断定はできません。

ただ、現地を歩いていると、書籍やネットで整理された情報と、地域に残る記録が少し違っている場面に出会うことがあります。

そうした小さな違和感も、地域史を見ていく上では大事なのかもしれません。

現地の石碑については別記事で

斧立八幡神社で見た石碑の内容については、別記事で詳しくまとめていきます。

深く読みたい方は

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この記事を書いた人

ぶぜんノートのアバター ぶぜんノート フォトライター

豊のくにあと運営者。
福岡県と大分県の県境エリアで活動しているフォトライターです。
活動エリアは、北九州から東〜中津〜宇佐〜国東半島の北西部。
拠点は、築年数不明の古民家を借りて開いた小さな図書館。
古代史が好きで、歴史旅サイト「豊のくにあと」を運営しています

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