道端や神社の境内で、石に「猿田彦大神」と刻まれた石碑を見かけることがあります。
猿田彦命は、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊を道案内した神として知られています。道開きの神、道を守る神として、各地で祀られてきました。
ところが、こうした猿田彦の石碑を調べていると、庚申塔として建てられたものも少なくありません。
なぜ、道案内の神である猿田彦が、庚申信仰と結びついたのでしょうか。
その背景には、江戸時代に広がった信仰の変化がありました。
庚申信仰と猿
庚申信仰は、中国の道教に由来する三尸説を背景に持つ信仰です。
人の身体には三尸(さんし)という虫が住んでいて、庚申の日の夜、眠っている間に身体から抜け出し、天帝にその人の罪を告げると考えられていました。
そのため、人々は庚申の日の夜に眠らず、集まって夜を明かす「庚申待」を行いました。
日本では平安時代に貴族の間で行われるようになり、中世を経て、江戸時代には庶民の間にも広く浸透していきます。
庚申塔も、この時代に各地で数多く造られました。
庚申信仰では、干支の「申」と猿が結びつき、三猿の像が刻まれるようになります。
「見ざる・聞かざる・言わざる」。
猿は庚申信仰を表す存在の一つになっていきました。
庚申の神として迎えられた猿田彦
猿田彦命は、古事記や日本書紀に登場する神です。
天孫降臨の際、天から降りてくる瓊瓊杵尊を迎え、地上への道案内をしたとされています。
そのため、道開きや道案内の神として信仰されてきました。
この猿田彦命が、庚申信仰と結びついていきます。
江戸時代中期には、山崎闇斎らの神道学者が、庚申の神を猿田彦大神とする神道的な解釈を説きました。
庚申の「申」と猿田彦の「猿」。
この文字のつながりを手がかりに、猿田彦が庚申の神として位置づけられていったのです。
それまで青面金剛などを本尊としていた仏教的な庚申信仰とは異なる、神道式の庚申信仰が広がっていきました。
庚申塔にも変化が現れます。
仏像の姿を刻んだものだけでなく、「猿田彦大神」と文字を刻んだ石塔や、猿田彦の姿を表した石塔が造られるようになりました。
大分県にも残る、仏式から神式への変化
この変化は、遠く離れた地域の話ではありません。
大分県豊後高田市の夷谷にある道園集落には、二基の庚申塔が残されています。
一基は、享保14年(1729年)に造られた青面金剛像の庚申塔。
もう一基は、宝暦3年(1753年)に造られた猿田彦大神像の庚申塔です。
この二基は、仏式の青面金剛から神式の猿田彦大神へと、庚申信仰の姿が変化していったことを伝える資料として評価されています。
道園集落では、庚申講の記録も代々残されており、約270年にわたって庚申信仰が受け継がれてきました。
現在も「まちあげ」と呼ばれる祭りが続いています。
庚申塔に刻まれた神の姿だけでなく、そこに集まって祈りを続けてきた人々の記録も残っているのです。
猿田彦は、道を守る神でもあった
猿田彦命は、庚申信仰だけに関わる神ではありません。
もともと道案内の神として知られ、村の入口や道の分かれ道などに祀られてきました。
道祖神との習合もあり、道や境界を守る神としての性格も持っています。
庚申塔も、集落の入口や道端、道の分岐点などに建てられることがあります。
そのため、猿田彦が庚申の神として信仰されるようになった背景には、庚申の「申」と猿を結びつける考え方だけでなく、道を守る神としての性格も重なっていたのかもしれません。
ただし、猿田彦大神と刻まれた石碑が、すべて庚申塔というわけではありません。
建立された場所や年号、刻まれた文字などを見ながら、一基ずつ確かめていく必要があります。
猿を通して重なっていく信仰
猿という動物に目を向けると、もう一つ気になる信仰があります。
日吉・山王信仰です。
日吉大社では、猿は山の神の使いとして大切にされ、「神猿」と書いて「まさる」と呼ばれています。
一方、庚申信仰では、干支の申と結びついて猿が登場します。
そして江戸時代には、猿田彦命も庚申の神として信仰されるようになりました。
それぞれの信仰は、もともと異なる由来を持っています。
日吉の猿、庚申塔の三猿、猿田彦大神。
同じ猿という存在を介して、山の神への信仰、道を守る神への信仰、そして庚申信仰が重なっていったようです。
道端で見かける「猿田彦大神」の石碑。
その一つ一つには、神話に登場する神だけでなく、江戸時代の人々が受け入れ、地域の中で育ててきた信仰の姿も刻まれているのかもしれません。
参考
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