『日本書紀』の応神天皇紀には、呉から四人の女性が日本へやって来たという話が記されています。
彼女たちは、衣服を縫う仕事に関わる「縫工女(ぬいめ)」でした。
四人の名前は、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)。
そして、四人が筑紫に到着したとき、胸形大神が工女を求めたため、そのうちの一人、兄媛が宗像大神に奉られたといいます。
古い記録に残る、宗像の神と工女たちの話です。
応神天皇が呉へ派遣した使者
『日本書紀』応神天皇37年の条には、阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)を呉へ派遣したという記述があります。
目的は、縫工女を求めることでした。
二人は呉へ向かう途中、高麗で道が分からなくなります。
そこで高麗の王に道案内を頼み、久礼波(くれは)と久礼志(くれし)という二人を付けてもらいました。
こうして呉に到着した二人に、呉の王は四人の女性を与えます。
- 兄媛(えひめ)
- 弟媛(おとひめ)
- 呉織(くれはとり)
- 穴織(あなはとり)
四人は、阿知使主らとともに日本へ向かうことになりました。
四人のうち一人が宗像大神へ
続く応神天皇41年の条には、四人が筑紫に到着したときのことが記されています。
阿知使主らが呉から筑紫に着くと、胸形大神が工女を求めました。
そこで、四人のうち兄媛を胸形大神に奉ったといいます。
『日本書紀』には、兄媛が筑紫国にいた御使君(みつかいのきみ)の祖になったとも記されています。
残る三人は、阿知使主らとともに津国へ向かいました。
ところが、武庫に着いたときには応神天皇がすでに亡くなっていました。
そこで三人は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に奉られたと記されています。大鷦鷯尊は、後の仁徳天皇です。
また、『日本書紀』は、この女性たちの子孫が呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)であるとしています。
兄媛はどこで何をしていたのか
この話で気になるのは、四人のうち兄媛だけが筑紫に残ったことです。
『日本書紀』には、兄媛が胸形大神に奉られたことと、御使君の祖になったことが記されています。
ただし、その後、兄媛が宗像でどのような仕事をしたのか、実際に機織りを続けたのか、どのような暮らしを送ったのかまでは書かれていません。
宗像大神に奉られたという記述から、神様に仕える女性だったのではないかと考えたくなりますが、具体的な役割までは分かりません。
また、ここでいう胸形大神が、宗像のどの神様を指しているのかも、この記述だけでは特定できません。
宗像大社にも残る工女の名前
宗像大社の公式サイトには、辺津宮の摂末社に祀られる神々の一つとして「呉織穴織(くれはとりあなはとり)」が紹介されています。
公式サイトでは、阿知使主らが呉から連れてきた四人の工女の話に触れ、呉織穴織を裁縫の神として崇敬していると説明しています。
『日本書紀』では、四人のうち兄媛が宗像大神に奉られたと記されています。
一方、宗像大社には、呉織・穴織という名前も残っています。
古い記録に登場する工女たちの名前が、現在の神社の祭祀にも見られるのは興味深いところです。
ただし、現在祀られている呉織穴織と、『日本書紀』に登場する四人の女性が、どのような経緯で結びついたのかまでは、今回確認した資料からは分かりません。
古い記録に残された、宗像と機織りの話
応神天皇の時代、呉から来た四人の工女。
兄媛、弟媛、呉織、穴織という名前が記され、そのうち兄媛は宗像大神に奉られました。
残る三人は津国へ向かい、後に呉衣縫・蚊屋衣縫の祖になったと伝えられています。
この話は、『日本書紀』に記された伝承です。四人が実際にどのような経路で渡来し、どのような技術を持っていたのか、また兄媛が宗像でどのような役割を担ったのかまでは分かりません。
それでも、応神天皇紀に宗像大神と工女の話が記されていること、そして宗像大社の摂末社にも機織りや裁縫に関わる名前が残っていることは、確認できる記録です。
織幡神社の高殿神社で応神天皇を見つけたことから始まった今回の調べもの。
その先には、呉から来た女性たちと宗像大神の話がありました。

参考
1. 宗像市公式サイト「時間旅行ムナカタ第106回 女神の機織り(上)」
女神の機織り(上)
2. 宗像大社公式サイト「辺津宮 摂末社 神社名及び祭神名」
辺津宮 摂末社 神社名及び祭神名
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