神社の祭神や由緒を調べていると、「丹生」という名前を目にすることがあります。
丹生神社、丹生都比売神社、丹生という地名。
この「丹生」は、古くから赤い顔料として使われてきた「丹」と関係する名前です。
丹を扱った人々は、どのような人たちだったのでしょうか。
そして、各地に残る丹生神社や丹生という地名は、同じ一族の足跡なのでしょうか。
丹とは何だったのか
丹(に)とは、辰砂(しんしゃ)という鉱物を砕いて作る赤い顔料です。
辰砂は硫化水銀を主成分とする鉱物で、水銀朱とも呼ばれます。
赤色の顔料にはベンガラなどもありますが、辰砂から作られる水銀朱は、古くから貴重なものとして扱われてきました。
その利用は縄文時代にまでさかのぼります。
土器や土偶を赤く彩るほか、弥生時代には墓の内部や埋葬施設にも用いられました。古墳時代になると、石室や石棺などにも使われています。
たとえば、岡山県の楯築遺跡では、木棺の底に大量の丹が敷かれていたことが知られています。
また、徳島県の若杉山辰砂採掘遺跡からは、辰砂の採掘や粉砕に使われた石杵や石臼が出土しています。
ここからは、辰砂を採るだけでなく、現地で原石を砕き、顔料として使える状態にする作業が行われていたことが分かります。
丹は、単なる赤い絵の具ではありませんでした。
古代の祭祀や葬送、権威を示す場面にも使われた、特別な素材だったのです。
丹生という地名
丹を産出する場所には、「丹生」という名前が残されています。
大分市にも丹生という地名があります。
『豊後国風土記』の丹生郷について、『訓読豊後国志』などを参照した大分県立図書館のレファレンス記録には、昔の人々が山の砂を採って朱砂にしたことから、丹生郷と呼ばれたという記述が紹介されています。
つまり、大分の丹生という地名にも、丹の産出に関する古い記憶が残されている可能性があります。
また、『続日本紀』には、文武天皇2年(698年)に伊勢国などから朱砂が献上されたことが記されています。
このとき、豊後からは「真朱」が貢納されたとする記録もあります。
古代の豊後が、朱を産する地域の一つとして認識されていたことがうかがえます。
丹生という地名は、単に似た名前が各地にあるというだけではなく、実際の鉱物資源と結びついている場合があるのです。
丹生氏という人々
では、丹を扱っていた人々は、どのような集団だったのでしょうか。
その名前として知られるのが、丹生氏です。
丹生氏は、丹や水銀に関わる採掘・加工、そして丹生神を祀る祭祀と結びつけて語られてきました。
特に和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社は、丹生の信仰を考えるうえで重要な神社です。
祭神の丹生都比売大神は、丹をつかさどる女神として伝えられています。
神社の由緒では、丹には災厄を祓う力があるとされ、丹生都比売大神はその力を司る神として信仰されてきました。
また、丹生都比売神社には、代々神職を務めた丹生家の文書が残されています。
和歌山県立文書館の解説によると、丹生家は丹生都比売神社の社家を務めた家で、明治以前には丹生相見とも称していました。
このように、紀伊には丹生都比売神を祀る神社と、それに奉仕してきた家の記録が残されています。
ただし、ここで注意したいことがあります。
丹生氏という名前が、各地で丹を扱った人々すべてを指す、全国共通の一族名だったと確認されているわけではありません。
紀伊の丹生家のように、具体的な家系と祭祀の記録が残る例はあります。
一方、各地の丹生という地名や神社が、すべて同じ血縁集団によって成立したとまでは言えません。
丹を扱う技術を持った人々が移動した可能性、地域の人々がその技術を受け継いだ可能性、鉱山や祭祀を通じて異なる集団が結びついた可能性。
いくつかの成り立ちを考えておく必要がありそうです。
中央構造線と辰砂の鉱床
もう一つ興味深いのが、辰砂の鉱床と中央構造線との関係です。
中央構造線は、九州から四国、紀伊半島を経て東へ延びる大規模な地質構造です。
三重県総合博物館の解説によると、日本の水銀鉱床の多くは西南日本の中央構造線付近に集中しています。
三重県多気町の丹生地域も、その一つです。
この地域では縄文時代から辰砂が採掘されていたことが、遺跡から出土した原石や石皿などによって分かっています。
また、徳島県の若杉山でも、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて辰砂の採掘と加工が行われていました。
地質的に見ると、中央構造線付近には辰砂を含む水銀鉱床が分布しています。
そのため、鉱物資源の分布と丹生という地名、丹生神社の分布を重ねてみることには意味がありそうです。
ただし、ここからすぐに、丹を扱った人々が中央構造線に沿って移動したと結論づけることはできません。
鉱床があることと、そこへ人々がどのような経路で移動したのかは、別々に確かめる必要があります。
丹を扱った人々は、どこへ広がったのか
丹生氏については、紀伊を中心に各地へ広がった技術者集団、あるいは丹の採掘や祭祀に関わる集団として説明されることがあります。
一方で、各地の丹生神社や丹生という地名が、すべて一つの一族の移動によって生まれたと確認できるわけではありません。
たとえば、大分の丹生郷には『豊後国風土記』に関わる記録があります。
紀伊には丹生都比売神社と丹生家の文書が残されています。
三重には古くからの辰砂採掘の痕跡があり、徳島には採掘と加工の遺跡が残っています。
それぞれの地域に、丹をめぐる異なる記録があるのです。
これらを一つの系譜として結びつけるには、まだ調べることが多くあります。
それでも、丹という鉱物を手がかりにすると、これまで別々に見ていた地名や神社、遺跡が、少し違った形で見えてきます。
神社の名前に残る「丹生」。
土地の名前に残る「丹生」。
そして、古代の墓や祭祀に使われた赤い顔料。
丹を扱った人々がどのような集団だったのかは、まだ分からないことも多くあります。
けれども、丹を産した土地と、そこに残る神社や祭祀を一つずつ見ていくことで、古代の人々がこの鉱物とどのように関わっていたのか、少しずつ見えてくるのかもしれません。
参考資料
- 丹生都比売神社「丹(水銀朱)について」
- 丹生都比売神社「ご由緒」
- 和歌山県立文書館「丹生家文書」
- 大分県立図書館・国立国会図書館レファレンス協同データベース「大分市『丹生』の地名の由来を知りたい」
- 三重県立博物館「辰砂と黒辰砂」
- 国指定文化財等データベース「徳島県若杉山辰砂採掘遺跡出土石器」
- 奈良国立博物館「正倉院展用語解説・辰砂」
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