宇佐神宮の夏の祭りを見に行ったとき、行列の先頭に立つ猿田彦を見ました。
人々の列よりも少し前を歩き、道を先導していく姿。

その姿を見ながら、以前、豊前の古い神社で聞いた言葉を思い出しました。
「豊前の神楽の鬼は、猿田彦なんですよ」
それまで、私の中では「猿田彦」と「鬼」は別々のものでした。
猿田彦は、天孫降臨のときに道案内をした神。
鬼は、神楽の中に現れる、どこか恐ろしい存在。
けれど、豊前を歩いていると、その二つが少しずつ重なって見えてきます。
道を先導するもの

北部九州を歩いていると、猿田彦の石碑に出会うことがあります。
道の分かれ目や、集落の入口。
そこに立つ猿田彦は、道を示す神として祀られているように見えます。
道の先に何があるのか。
どこへ進めばいいのか。
その境目に立ち、人を先へ導く。

今回、宇佐神宮で見た猿田彦も、まさに行列の先頭にいました。
祭りの列を導いていく。
「道を先導する」という猿田彦の性格を、目の前で見ることができたような気がしました。
そして、豊前では、この猿田彦が「鬼」として神楽に現れるという。
そう聞くと、鬼というものの見え方が少し変わってきます。
豊前の鬼

豊前の神楽で見る鬼は、必ずしも恐ろしいだけの存在ではありません。
私が見た鬼は、むしろ笑っていました。
鬼なのに、どこか親しみのある表情をしている。
それまで「鬼」と聞いて思い浮かべていたものとは、少し違いました。
鬼は、人を脅かすためだけにいるのではないのかもしれない。
そう思うようになりました。
もちろん、これは私の見方です。
けれど、猿田彦と鬼を重ねて考えてみると、そこには一つの共通点が見えてきます。
どちらも、人のいる場所と、その先にあるものとの間に立っている。
そして、人を先へ進ませる。
国東半島の鬼
このことを考えていると、今度は国東半島の「鬼」が気になってきます。
国東半島では、鬼は仏と重なっています。
六郷満山の文化の中で語られる鬼。
そして、山の中に残る仏像や磨崖仏。

その中でも私が気になったのが、熊野磨崖仏の不動明王でした。
不動明王は、剣を持ち、炎を背負っています。
一見すれば、とても穏やかな存在には見えません。
けれど、実際にその姿を前にすると、そこにはどこか静かで、穏やかな表情があります。
怖さだけではない。
むしろ、そこにいることで何かを守っているようにも見える。
鬼と仏。
鬼と守護。
この二つも、私の中では少しずつ重なってきました。
鬼は、何だったのだろう
「鬼」という言葉から、私たちはどうしても、人に害を与えるものを想像します。
けれど、古いものを見ていくと、鬼はそれだけではないように思えてきます。
道の先に立つもの。
境界に立つもの。
人の前に立って、何かから守るもの。
そして、ときには人を先へ導くもの。
猿田彦。
豊前神楽の鬼。
国東半島の鬼。
不動明王。
もちろん、これらがすべて同じものだという証拠があるわけではありません。
私が見て、聞いて、歩いてきた場所の中で、少しずつ重なって見えてきただけです。
だから、まだ「猿田彦=鬼」とは言えません。
ただ、宇佐神宮で行列を先導する猿田彦を見たことで、
「豊前の神楽の鬼は猿田彦である」
と聞いた、あの言葉がもう一度浮かび上がってきました。
そして、その先に国東の鬼と不動明王がいる。
もしかすると、私がこれまで「鬼」だと思っていたものは、恐ろしいものではなく、
道の先に立ち、人を守り、先へ導くもの
だったのではないか。
そんなふうにも見えてきます。
まだ、答えはありません。
でも、別々だと思っていたものを一つずつ地図の上に置いていくと、思いがけないところで線がつながることがあります。
今回も、そんな小さな線の一本なのかもしれません。



