これまで土蜘蛛や熊襲、耳垂、鼻垂と呼ばれた「まつろわぬ民」たちの記録は、なかなか見つけることができませんでした。
先日、図書館で見つけた下毛群誌に貴重な情報が残っていましたので、以下、ご紹介します。
下毛郡誌で情報を確認
一、上古の土人
我郡上古の土人は如何なる種族なるや知るを得ざるも、兎に角高天原種族以外の蕃人が既に土着し居たるを考ふるべく、従つて之が熊襲土蜘蛛の類なりしは察し得らるべし、景行天皇紀十二年熊襲叛きし際に賤賊アルモノニ、耳垂、鼻垂ト日フ殘賊貪婪屢々人民ヲ略ス、是レ御木川上二居り要害ノ地ナリとあり、即ち耳垂、鼻垂と稱する蕃人の山國谷によりしを知るべく當時は今の中津平野は茫々たる海濱の砂洲なりしを思へば、我等の祖先は之等の蕃賊と離婚したるものなるを考へ得べし、今現に穴居の跡として東城井村靑妙見洞の如き上津村羅漢寺の洞窟、同村小川内の岩穴、東谷村の各所に散在する多數の洞穴、其他城井村、津民村、山福郡、下鄉村、三鄉村等耶馬溪中の各所 到る所に散在す洞穴は皆之なく、就中最も大なるは下鄉村金吉谷の奥、今は玖珠郡八幡郡の内なる鎌田窟にて、往昔鎌田隼人と稱する浪人生めりとて里人今鎌田八幡宮を祀るも、元より附會の説に
して土蜘蛛穴居の跡たるは云ふを須ひず、穴は南に向ひて開け、横三丈、竪七尺乃至二丈、高さ六十七間に餘り内に清水湧出し、南方に扉の如く大なる岩ありて内部を蔽ひ、晝尚暗し、其他穴居の跡は山國谷の随所に之を求むるを得べし、此鎌田窟は又竈岩と稱し、往年論者此地に住みし時里人に 聞き得し一の傳説あり、其談荒唐無稽なるも乾燥なる郡史に多少の興味を添へもやせんと左に示しぬ
下毛郡誌 一〜二ページより引用
一、上古の土着の人々
私たちの郡(下毛郡)の、大昔の土着の人々がどのような種族であったのかを知ることはできませんが、いずれにせよ、高天原種族(大和朝廷側)以外の野蛮な人々がすでに土着していたと考えるのが自然であり、したがって、これらが「熊襲(くまそ)」や「土蜘蛛(つちぐも)」の類であったことは推察できます。『景行天皇紀』12年の熊襲が背いた際の記事に、「下劣な賊のなかに、耳垂(みみたり)、鼻垂(はなたり)という残虐で欲深い者がおり、しばしば人民をかすめ奪っていた。これは御木川(現在の山国川)の上流に暮らしており、険しい要害の地である」とあります。つまり、耳垂、鼻垂と呼ばれた野蛮な人々が山国の谷に拠点を置いていたことが分かりますし、当時は今の中津平野が広々とした海辺の砂州であったことを思えば、私たちの先祖はこれら大和朝廷に従わない民と交じり合わずに暮らしていた(あるいは離反していた)と考えることができます。今も実際に穴居(洞窟住居)の跡として、東城井村の青妙見洞をはじめ、上津村の羅漢寺の洞窟、同村小川内の岩穴、東谷村の各所に散在する多数の洞穴、そのほか城井村、津民村、山福村、下郷村、三郷村など、耶馬渓の中のいたる所に散在する洞穴はすべてその跡にほかなりません。なかでも最も大きなものは下郷村金吉谷の奥にあり、現在は玖珠郡八幡村(※現在の九重町付近)の領内となっている「鎌田窟(かまたのいわや)」です。昔、鎌田隼人という浪人が住んでいたということで、里の人は今も鎌田八幡宮として祀っていますが、これはもともと後世のこじつけの説であり、土蜘蛛の穴居の跡であることは言うまでもありません。その穴は南に向かって開いており、横幅は約9メートル(三丈)、奥行きは約2メートルから6メートル(七尺から二丈)、高さは18メートルから21メートル(六、七間)余りもあり、内部には清水が湧き出ています。南方には扉のような巨大な岩があって内部を覆い隠しているため、昼間でもなお暗い場所です。そのほかにも穴居の跡は、山国の谷の随所にこれを見出すことができます。この鎌田窟はまた「竈岩(かまどいわ)」とも呼ばれており、かつて著者がこの地に住んでいた時、里の人から聞き得た一つの伝説があります。その話は荒唐無稽なものではありますが、乾燥しがちな郡の歴史に多少の興味を添えるかもしれないと思い、以下にそれを示します。



