北部九州の山上に残る「ため池」――古代水利の痕跡なのか

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中津・国東半島など、旧豊前国エリアの山々を歩いていると、不思議な風景に出会うことがあります。

山の中腹や、山頂付近にため池が存在しているのです。

一般的に、ため池というと平野部や丘陵地の農地に隣接して作られる印象が強いのです。

しかし中津と豊後高田では、「なぜこんな高い場所に水を溜めたのか」と感じるような池に出会うことがあります。

その違和感は、八面山の大池について調べた時に更に強くなりました。

目次

なぜ「山の上」に池を作ったのか

現代であれば、ポンプで水を汲み上げることができます。

また江戸時代以降になると、大規模な用水路網の整備が進み、河川から広範囲へ水を供給する技術が発達しました。

そのため、後世になるほど「わざわざ山の高い場所に池を築く必要性」は相対的に低下していったと考えられるのではないでしょうか。

しかし、古代には事情が違いました。

機械的な揚水技術が存在しない時代、水を安定供給する最も確実な方法の一つは、「高い場所に水を蓄え、重力で下流へ流す」ことだったそうです。

つまり、高所のため池は、古代においてはむしろ合理的なインフラだった可能性があります。

溜池は全国に30万近くもあるとされており、近畿から瀬戸内海沿岸を経て北九州におよぶ一帯には特に多く分布している。これらの溜池のなかには、遠く古墳時代に築造されたものも少なくないといわれ現在でも農業用水の相当な部分を担い続けている。
 水田の増加などで必要な水量が増加すると、まず自然のままの流れ(自流)を利用し、しだいに井堰を改良して利用可能な水量をできるだけ増やそうとするが、渇水時にはやがては自流だけでは用水不足が生じるようになる。わが国の河川は、季節により水量が大きく変動する。古代の井堰は簡易なもので、利用可能量を生み出す能力が小さく、取水もあまり安定していなかったため、早魅に見舞われることも多く、耕地の拡張の大きな制約にもなった。

(一社)農業農村整備情報総合センター 水上の礎 から引用

古代土木と渡来系技術

もちろん、山の斜面に池を築くことは簡単ではないでしょう。

堤防が決壊すれば、大量の水が一気に流出すします。

安定した池を維持するには、高度な築堤技術や測量技術が必要になります。

古代日本では、百済や新羅など朝鮮半島から渡来した技術集団が、灌漑・治水・築堤に関わったと考えられているそうです。

たとえば、大阪の狭山池では、土の層の間に枝葉を敷き込む「敷葉工法」の痕跡が確認されています。

こうした技術は、水漏れや崩壊を防ぐための高度な土木技術でした。

また、京都・嵯峨野など、渡来系氏族である秦氏の活動地域では、古い灌漑システムとの関係が指摘されることもあるようです。

旧豊前国の山々が残すもの

豊前地域には、宇佐神宮と関わる大神氏、香春周辺の辛島氏、秦氏系伝承など、渡来系技術集団との関係を想起させる痕跡が各地に残っています。

八面山周辺のため池群も、単なる農業施設としてだけではなく、古代の水利技術や信仰体系と結びついた存在だった可能性を感じます。

山の上に、水が留められている。

その風景の違和感は、古代の人々が築いたインフラの痕跡を、今も静かに残しているのかもしれません。

山の上にため池がある場所

①については、古代に造られたかは確認できていませんが、山の上にあったのは確かです。

また何か分かれば追記していきます。

①国東半島・豊後高田市 応利山エリア

応利山を降りていくと、麓にむかって右手にため池が見えました。

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豊のくにあと運営者。
福岡県と大分県の県境エリアで活動しているフォトライターです。
活動エリアは、北九州から東〜中津〜宇佐〜国東半島の北西部。
拠点は、築年数不明の古民家を借りて開いた小さな図書館。
古代史が好きで、歴史旅サイト「豊のくにあと」を運営しています

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