地震を起こす生き物といえば、ナマズを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
大きなナマズが地中に棲み、暴れることで地震が起きる。鹿島神宮の要石は、そのナマズを押さえつけている。
そんな話を聞いたことがあると思います。
けれど、ふと疑問に思いました。
本当に、昔からずっとナマズだったのでしょうか。
茨城県の鹿島神宮には要石があります。
そして、和歌山県みなべ町の沖合に浮かぶ鹿島にも、地震や津波にまつわる伝承が残されています。
どちらも海に近い場所です。
ナマズが地震を起こすという話だけで考えると、少し不思議な気がしました。
調べてみると、地震を起こす存在は、時代によって異なる姿で描かれていたことが分かりました。
日本列島を取り巻く龍
東京大学地震研究所の解説によると、遅くとも鎌倉時代の初めには、日本は巨大な龍に取り囲まれており、その龍が動くことで地震が起きると考えられていました。
鎌倉時代初期の暦の表紙には、日本列島を取り巻く龍が描かれています。
大地の下に何か巨大な存在がいて、その動きが地震を引き起こす。
目に見えない地震の原因を、龍という姿で表現していたのです。
この龍の図像は、後の時代にも引き継がれました。江戸時代末期の瓦版にも、鎌倉時代の暦に描かれたものに由来すると考えられる龍が登場します。
地震と龍を結びつける考え方には、仏教の影響もあったとされています。
地震虫という存在
もうひとつ、興味深い記録があります。
地震史を研究した武者金吉は、建久年間(1190〜1198年)の暦に「地震の虫」と呼ばれる奇妙な生き物が描かれていたという話を紹介しています。
その虫は、巨大な蜘蛛のような姿だったと推測されています。
ただし、武者自身はその図を直接見たわけではありません。別の研究者が紹介した記述をもとに、虫の姿を推測しています。
そのため、当時の人々が広く地震虫を信じていたとまでは言えません。
それでも、地震の原因として、龍だけでなく虫のような生き物も想像されていた可能性があることは興味深いところです。
目に見えない地中の動きを、私たちの知っている生き物の姿に置き換えて理解しようとしていたのでしょうか。
ナマズはいつ登場したのか
では、ナマズはいつから地震と結びつくようになったのでしょうか。
東京大学地震研究所の解説では、日本列島を取り巻く龍が、地下に棲むナマズへと変わったのは江戸時代初期とされています。
その手がかりのひとつが、寛文2年(1662年)の『大極地震記』に見える歌です。
「揺らぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神のあらん限りは」
地震で揺れても、鹿島の神がいる限り要石は抜けない、という意味の歌です。
そして、寛文6年(1666年)の『塵摘問答』には、「鹿島大明神日本を巻く鯰に要打つ」という題の図が登場します。
描かれているのは、日本列島を取り巻く、蛇や龍のような姿をした怪物です。その怪物に鹿島大明神が釘を打っています。
ここで面白いのは、怪物が単純なナマズの姿ではないことです。
日本列島を取り巻く龍のような姿と、地震を起こすナマズ。その二つのイメージが、ひとつの図の中に重なっています。
龍からナマズへ、ある日突然入れ替わったというよりも、もともとあったイメージが少しずつ変化していったのかもしれません。
なぜナマズが選ばれたのか、その決定的な理由は分かっていません。
水の中に棲む生き物であり、地震の前に異常な動きを見せることがあるという俗信も、結びつきの背景として考えられています。
鹿島神宮の要石
江戸時代になると、鹿島神宮の要石と地震を結びつける信仰が知られるようになります。
鹿島神宮の要石は、地上に見えている部分はわずかですが、地中深くまで続いていると伝えられる石です。
鹿島神宮の祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)。
地震を起こす大ナマズを武甕槌神が押さえつけ、その力を封じているというイメージが広がっていきました。
ただし、要石が最初からナマズを押さえるために置かれた石だったとは限りません。
鹿島神宮の要石には、神が降り立ったときに座った石という伝承もあります。古くは神の座、神の依り代となる石として捉えられていたと考えられています。
神聖な石に対する信仰と、地震を鎮めるという意味づけ。
その二つが、どのように重なっていったのかも気になるところです。
和歌山のみなべ町にも鹿島がある
もうひとつ、気になった場所があります。
和歌山県みなべ町の沖合に浮かぶ鹿島です。
ここには鹿島神社が鎮座しています。和歌山県やみなべ観光協会の案内によると、奈良時代以前に常陸国の鹿島神宮から勧請されたと伝えられています。
この島には、地震や津波にまつわる伝承が残っています。
宝永4年(1707年)の宝永地震では、太平洋沿岸に大津波が押し寄せました。
みなべ町の鹿島には、島が波を二つに分け、町を津波から守ったという伝承があります。
また、鹿島の島全体が信仰の対象とされてきました。
鹿島神宮と、海に浮かぶみなべ町の鹿島。
どちらにも鹿島の神が祀られ、地震や災害を鎮める信仰が結びついています。
ただし、両者の要石にまつわる伝承が、どのような経緯で結びついたのかは、今回確認した資料だけでは分かりません。
海に近い場所にある二つの鹿島に、地震をめぐる伝承が残っていること。
まずは、そのことを覚えておきたいと思います。
安政江戸地震と鯰絵
ナマズのイメージが広く知られるようになった大きなきっかけが、安政2年(1855年)の安政江戸地震でした。
地震の直後、江戸では「鯰絵」と呼ばれる版画が大量に出回りました。
国立歴史民俗博物館によると、安政江戸地震の発生後、同年末に出版が禁止されるまでの間に、200種類を超える鯰絵が発行されたといわれています。
そこには、鹿島大明神が要石で大ナマズを押さえつける姿も描かれています。
しかし、鯰絵は単に地震の原因を説明する絵ではありませんでした。
地震への恐怖や怒り、被災した人々の姿、復興によって仕事が増えた職人たち、富裕層への風刺、世の中を立て直したいという願い。
そうした江戸の人々のさまざまな思いが、ナマズの姿に託されていました。
地震を起こす恐ろしい存在でありながら、世直しをもたらす存在として描かれることもあったのです。
ナマズは、災害の象徴であると同時に、当時の社会を映す存在にもなっていました。
龍からナマズへ
地震を起こす存在は、最初からナマズに固定されていたわけではありません。
鎌倉時代初期には、日本列島を取り巻く龍が描かれていました。
同じ頃の暦に地震虫が描かれていたという報告もあります。ただし、こちらは伝聞に基づく記録であり、慎重に扱う必要があります。
江戸時代初期になると、龍や蛇のような姿とナマズのイメージが重なり合う図が現れます。
そして、安政江戸地震の後に大量の鯰絵が発行されたことで、地震とナマズの結びつきは広く知られるようになりました。
身近な「地震とナマズ」という話を少し遡ってみると、その背景には、時代ごとに異なる生き物の姿がありました。
私が気になったのは、鹿島神宮と和歌山のみなべ町の鹿島に、どちらも地震や災害にまつわる伝承が残っていることです。
海に近い二つの鹿島と、地震を鎮める石。
そこには、ナマズという姿だけでは捉えきれない、龍や蛇、そして海と大地をめぐる古いイメージが重なっているのかもしれません。
まだ分からないことも多くあります。
けれど、よく知られたナマズの話を少し遡るだけで、違う姿が見えてきました。
参考
- 東京大学地震研究所「江戸の鯰たち~幕末の江戸に群れる地震鯰~」
https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/tosho/panko/panko2020/index.html - 武者金吉「地震なまず」(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001748/files/55796_69556.html - 「鯰絵 | ナマズと地震との関係に関する研究」(東海大学関連研究サイト)
https://www.sems-tokaiuniv.jp/namazu/macroano.html - 国立歴史民俗博物館「黄雀文庫所蔵 鯰絵のイマジネーション」
https://www.rekihaku.ac.jp/event/2021_exhibitions_tokushu_kou.html - 鹿嶋市「わすれるな 地震よけなら 要石」
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/karuta/15653.html - 和歌山県「鹿島神社」
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/081300/d00214936.html - みなべ観光協会「鹿島神社」
https://www.minabe-kanko.jp/sightseeing/1187
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