巡った点と重なる神功皇后伝承
ここ数年、旧豊前国から国東半島にかけて、山岳信仰や水神信仰、八幡信仰の痕跡を追いながら各地を歩いてきました。
最初は右三つ巴紋や、山の中に残る海神社、貴船神社、龍神伝承など、それぞれ別のテーマとして見ていたのですが、フィールドワークを重ねるうちに、ある存在が何度も浮かび上がってくるようになりました。
神功皇后です。
これまでは、あえて神功皇后伝承について深く書いてきませんでした。
伝承は広範囲に存在し、史実との距離感も難しく、安易に結論づけたくなかったからです。
ただ、豊前・宇佐・国東の地形や信仰を歩いて見ていくと、
・海と山を往復する神事
・水辺に残る比売神信仰
・八幡と結びついた女性神
・龍神や航海に関する痕跡
などが、少しずつ一本の水脈のように繋がり始めました。
山国川を越えて東へ。中津〜宇佐〜国東半島になると薄れる神功皇后の気配
山国川を越えて中津・宇佐方面へ入ると、現地で感じる信仰の重心が少し変わるようにも感じています。
移住前に住んでいた北九州は、皿倉山の名前の由来や地名「皇后崎」といい、神功皇后の伝承が多く残っていたように思います。
皿倉山の名前の由来は、日本書紀に記された「神功皇后伝説」に由来すると語り継がれています。
神功皇后が西征の折、山に登られてはるかな国々を眺望されて下山したとき、さらに夕暗が深まっていたので、「更に暮れたり」と言われたことから、「更暮山」あるいは「更暗山」と呼ばれ、「皿倉山」に転じたとされています。
北九州市ホームページから引用
かつて洞海湾に突き出していた岬で、割子川河口部の右岸に位置していた。古く湊として機能し、神功皇后が洞海を船で通った時、「しはらくとゝまり給ひし」ところとの伝承がある(続風土記)。近くには王屋敷という字名も残り、これも皇后の伝承に関連する地名という(「地理全誌」など)。寛文年中(一六六一―七三)福岡藩が黒崎湊の整備を計画した際、すでに当地の地先は干潟(穴生潟)となっていたが、幕府には新湊の構築ではなく、皇后崎湊の再興という名目で届出がなされた(新訂黒田家譜・北九州市史)。
コトバンクから引用
山国川を越えて、神功皇后伝承そのものが消えるわけではないのですが、山岳信仰や龍神信仰のレイヤーが前面に出てくる印象があります。
山国川は、行政区分以上に、信仰の空気が切り替わる境界線だったのかもしれません。
特に北九州市は神功皇后の伝承だらけという記憶です。
偶然なのかはまだ分かりません。
おわりに
これまで歩いてきた北部九州の場所を改めて見直した時、「この場所にも神功皇后伝承があった」という点が、想像以上に多いことに気づき始めています。
これからは、既に訪ね歩いてきた土地に残る神功皇后伝承についても、少しずつ記録を追記していこうと思います。
断片を並べていった先に、何が浮かび上がるのか。
まずは、現地に残る痕跡そのものを見つめてみたいと思います。



