小倉そごう、コレット、そして現在は「セントシティ」である建物の屋上近くの神社
小倉駅からすぐの場所にある商業施設「セントシティ」。
私が初めて北九州市に住んだ頃は、まだ小倉そごうでした。
それからコレットになり、現在は「セントシティ」になりましたが、変わらないのは、屋上近く、12階テラスにある神社です。
実はこれまで足を運んだことがありません。
福岡県の東端、豊前市に移住して史跡巡りを続け、最近では北九州市との歴史のつながりを感じるようになり、ようやくこちらの神社を訪れることになりました。
エレベーターで10階に行き、そこからはエスカレーターで12階へ
エレベーターの表示には神社のことは書いていなかったので、とりあえず10階まで行きました。
そこからはエスカレーターで12階へ。

エスカレーターを降りてドアを開け、外に出て手前側を見たらこのような景色。
小倉駅周辺の建物やもちろん、海、山が見渡せました。
瘡守稲荷神社と宮地嶽神社

そして逆側の置くに神社がありました。
セントシティの北東にあります。
鬼門を守っている?

「正一位瘡守稲荷神社」と「宮地嶽神社」と扁額に書かれています。
由緒書きの看板に説明がありました。

瘡守(かさもり)稲荷神社ご由来
ご祭神
倉稲魂大神
猿田彦大神
大宮女大神相殿祭神(宮地嶽神社)
息長足比賣命
勝村大神
勝頼大神寛永(自一六二四年至一六四四年)の頃、小倉城主小笠原侯に仕える真砂政次郎と言う武士が、主君に従って江戸に滞在するうちに、花柳街に遊び瘡疾(性病)を患いました。
当時の医薬では効果少く、友人の勧めで江戸南方の瘡毒に霊験新といわれる瘡守稲荷神社に詣で、平癒を祈願しました。その時政次郎は、「速かに癒えしめ給わば、帰郷して祠を建て、厚く敬ひ奉らむ」との誓詞を捧げました。その甲斐あって、幾許もなく病癒え、壮健の身となって帰郷することが出来ました。
しかし、帰郷した政次郎は、多忙に取紛れて一年余も誓詞のことを忘れていました。
すると、ある梅雨の夜、夢心地のうちに門前に騎馬の音が聞こえ、更に「汝は、江戸にて瘡の癒えたるを忘れたりや」との叱責の声を聞きました。
政次郎は大いに悔い、急ぎ神恩に報いるために、家人、親族の協力を得て、博労町(現在のこの地)に在った宝典寺別院の大日堂境内に祠を建て、寛永十四年(一六三七年)五月十五日鎮座の祭典を挙げました。これがこの神社の起りです。
以来、小倉に疱瘡等の疫病が流行する度に、霊験著しく、城主も深く感激して、小笠原家の定紋(三階菱) つきの幕と提灯並に石灯籠を寄進されたといいます。
その後、昭和の時代に至って、老朽した祠を改築することになり、信徒総代安倍寛は講社一同と相計り、昭和三十四年に新しい社殿を建立しました。その折、近傍に在った宮地嶽神社の祠も荒廃していましたので、その祭神を瘡守稲荷の新神殿に遷し、相殿祭神として崇敬を加えることになりました。
昭和六十三年十二月、この地区を北九州市の表玄関として整備するための再開発事業が起り、施行者の小倉駅前東地区市街地再開発組合と再開発ビルの核店舗株式会社小倉そごうは、神社講社代表と協議を重ねた結果、再開発ビルの屋上に遷座奉り、今後は地域の鎮守として、またこのビルの安全と小倉そごうを始めとする営業者の商売繁盛の守護神としてあがめることになりました。遷座の期日は平成五年十月一日です。
なお、この神社には軍荼利明王の神像が合祀されていましたので遷座の際、境内に別祠を建て、神社の守護として祀りました。ご祭日
初午祭 二月初午日
鎮座祭 五月十五日
夏祭 七月二十二日
遷座祭 十月一日
江戸時代、殿様の小笠原公のお供をした武士が、江戸で性病になり、当時では回復が難しい病を江戸南方の瘡守稲荷神社の神様が、病気を治してくれたと。
そのお礼に帰ってきたこの土地で祀ったということですね。
今も小倉北区紺屋町にある「宝典寺」の別院の大日堂境内に祠を建て、寛永十四年(一六三七年)五月十五日鎮座の祭典を挙げたのが、この神社の始まりであるようです。
江戸南方の瘡守稲荷神社とはどこだったのか、そして「宝典寺」の別院の大日堂は今はもうないのでしょうか。
それについては情報が追えませんでした。
小笠原公の家紋


小笠原公の家紋があるのは、この神社が小笠原公に関わる場所だったからということでしょうか。
軍荼利明王のお堂

こちらは軍荼利明王の祠。
神仏習合の名残がそのままに。
見たことがない紋

社殿にかけられた額の上には

左右対称のくるっとした形の紋の真ん中に、宝珠が二つ重なったような形をした紋。
稲荷神社でよく見かける紋とは違う気がします。
でも、どこかで見たような…
またなにか分かれば追記したいと思います。
福岡県神社誌で「瘡守稲荷神社」の情報を確認
いつものように福岡県神社誌のデータベースで情報を確認しようとしましたが、瘡守稲荷神社の情報が見当たりません。
他のウェブサイトでも福岡県神社誌による情報を見つけられませんでした。
追記:セントシティの場所は、以前は「永照寺」があった
北九州に長く住む知人から「セントシティの建物は元々、小倉SOGO。あのビルが建つ前は、たしか神社か寺があったらしい」と聞き、調べてみたら、「永照寺」という古い歴史を持つお寺があったそうです。
永照寺は元々は、現在小倉城がある場所に開かれ、小倉城築城のとき、米町(ビルがある場所)に移転し、現在は大手町にあります。
小倉城といえば、八坂神社があります。

「雲龍山」と号した永照寺がある場所に、小倉城と八坂神社ができて、永照寺はセントシティ(小倉SOGO)の場所に移転したようです。
龍、それに八坂神社と、このメディアで辿っているキーワードがここでも合わさりました。
そして気になるのが、永照寺と瘡守稲荷神社の関係です。
永照寺があったことは確認できましたが、当時、永照寺と瘡守稲荷神社は同じ場所(米町)にあったということなのでしょうか。
また何か分かれば追記したいと思います。
瘡守稲荷神社・宮地嶽神社の場所
〒802-0002 福岡県北九州市小倉北区京町3丁目1−1 12F テラス
この記事に近い記録

今回の記事は18本目のアーカイブとなります。近代的なビル「セントシティ」の12階テラスという、一見歴史とは無縁に思える場所から、江戸時代の武士の誓い、小笠原藩の崇敬、そしてかつての小倉の土地の記憶へと繋がっていく非常に興味深い記録ですね。
都会の喧騒を見下ろす高層階に、性病や疫病を鎮める「瘡守(かさもり)稲荷」と、福岡を代表する勝利の神「宮地嶽神社」、さらには「軍荼利明王」までもが共生している姿は、まさに現代の神仏習合の最前線といえるでしょう。
それでは、いつもの形式で英語要約とトピックを作成しました。
English Summary
An English summary has been added below to share these records with readers around the world.
Please note: This summary was generated using AI translation (DeepL or Gemini). While we strive for accuracy, some technical terms or subtle nuances of local history may differ from the original Japanese.
Topic: Gods in the Sky: The Kasamori Inari and Miyajidake Shrines atop Saint City Kokura.
Summary: High above the busy streets of Kokura, on the 12th-floor terrace of the “Saint City” department store, sits a unique sanctuary. This site houses Kasamori Inari Shrine, established in 1637 by a samurai who served the Ogasawara clan to give thanks for recovery from a serious illness. It also co-enshrines the Miyajidake and Gundari Myoo deities. The author notes that before this modern skyscraper was built, the land was once the site of Eisho-ji Temple, which moved during the construction of Kokura Castle. By connecting the dots between the dragon-themed temple “Unryuzan” and the Yasaka Shrine at the castle, the author reveals that even in the most urbanized parts of Kitakyushu, the ancient spiritual threads of water, dragons, and divine protection remain intact.



