この春から、移住元の北九州市に行く用事が増えたこともあって、先日行きたかった神社に足を運んできました。
小倉北区の愛宕山にある愛宕神社です。
JR西小倉駅から徒歩で
JR西小倉駅を降りて、徒歩で約20分の距離だったので、バスを使わず歩いて行きました。
なお、最寄りバス停は小倉高校下バス停でした。
小倉北区 愛宕神社 2026年4月 撮影記録
ほぼ地図アプリどおりの道を歩いて、愛宕神社へ。
都市高速道路沿いを歩き、途中右折して、愛宕山に向かうであろう坂道に入っていきました。
そのうち左側を見上げると、神社の建物も見えてきて、さらに道のとおり進んでいくと、左側にひらけた場所が現れました。
そこは駐車場のようでした。

駐車場らしきエリアに入っていくと奥へと進む道がありました。
位置的には神社の場所で間違いなさそうだったので、奥に向かいました。

すると左手に神社というよりお堂のような建物が見えてきました。
まずは愛宕神社を目指そうとその先へ進むと、それらしき神社がありました。
愛宕神社を発見

社殿の額に「愛宕神社」と刻まれているので、ここが愛宕神社で間違いありません。

神社の正面には急な石段、そして都市高速が見えました。
なるほど、都市高速沿いにまっすぐ歩いていたら、ここの階段から登ってくるようだったのですね。

阿形の狛犬。

吽形の狛犬。
玉に右前足を乗せています。

本殿。

目についた白い箱はポスト。
人がいない神社に見えますが、ポストがあるのは珍しい?
愛宕神社の住所は「小倉北区愛宕2丁目2番」。

石階成就の由来
昔より当社の石階に石を用いて年ふるまま土ながれ石おちて老人小児などはことさらに登りなやみしを、御厩組に惣右衛門といふ男ありて、年ごろ当社を信仰し奉りしが、いかでよき石階を築き人々の参詣を安からしめんと、天明八年(一七 八八年)申年より思い起こし、我小倉はさらなり、江戸ありける程も人々をすすめて金三両四両にもなりぬれば、 やがて石工に手配し、五両七両にもおよべば、七段八段をを築きつつ、終いに文化九年(一八一二年) 申年にいたり、二十五年をへ、金三十七両武分二朱の高となり、上下の石階百三十一段成就す。かくあまたの年月をかさぬるのみかは、奉加帳長持ち一棹におよびしは全く三銅五銅より六七まてをかぎりとせしゆえ、奉加せし人あまたなりといへども、金の高つもらさればなりけり。そもそも此の惣右衛門が篤実謹行石階成就の趣は、我師秋山翁志たくし筆をとられつれど、妙行寺火災の時失しかばかの惣右衛門がこころざし後生に知る人なからんことを、中村治作深くなげきて、おのれにものせよと、乞ぬるままつたなき筆はとりつれど、惣右衛門が性質の十が一をもったぶる事あたはず。ただその聞きつるままをかくは書記しなりけり。
山名 豊樹
嘉永七年(一八五四年)
十一月朔日
山名豊樹先生は幕末の六歌人の一人で、秋山先生は光師に当たる。中村治作氏は菜園場の庄屋です。
石段完成の由来
昔から当社の石段には石が使われていましたが、年月が経つにつれて土が流れ出し、石も脱落してしまいました。そのため、お年寄りや子供などは特に登るのに苦労していました。
そんな折、御厩組(おんまやぐみ)に惣右衛門という男がおりました。彼は長年当社を深く信仰しており、「どうにかして立派な石段を築き、人々の参詣を楽にしてあげたい」と、天明八年(1788年)の申年から決意を固めました。
地元の小倉はもちろん、江戸にいた間も人々に寄付を呼びかけました。お金が三両、四両と集まればすぐに石工の手配をし、五両、七両と貯まれば七段、八段と少しずつ築き上げていきました。
こうしてついに文化九年(1812年)の申年に至るまで、二十五年の歳月をかけ、寄付金の総額は三十七両一分二朱にのぼり、上下合わせて百三十一段の石段が完成したのです。
これほど長い年月がかかったのは、寄付をまとめた帳面が長持(大きな箱)一棹分にもなったことから分かる通り、寄付の額を「三文や五文から、多くても六、七文まで」と制限していたため、寄付した人数は膨大でも、金額がなかなか貯まらなかったからなのです。
そもそも、この惣右衛門の誠実で真面目な行いと石段完成の経緯については、私の師である秋山翁が詳しく書き記しておられました。しかし、妙行寺の火災でその記録が失われてしまいました。
「このままでは惣右衛門の志を後世に知る人がいなくなってしまう」と中村治作氏が深く嘆き、私に執筆を依頼されました。そこで、拙い筆ながらお受けしたものの、惣右衛門の立派な人柄の十分の一も表現できておりません。ただ、聞き及んでいる事実をそのまま、このように書き記した次第です。
山名 豊樹
嘉永七年(1854年)十一月一日
由緒書きではなく、先程見た石段の由来のようです。
寄付額の上限を定めていたため、お金が集まるまで長い年月がかかったようです。
惣右衛門という男性が行ったこの善行を後世に残すための文章ですね。
愛宕神社の右側に「黒西大明神」

愛宕神社の社殿の右側には「黒西大明神」の石碑がありました。
黒西大明神とは聞いたことがありません。
愛宕神社、もしくは愛宕山に関連があるのでしょうか。
愛宕神社の先には稲荷神社
愛宕神社のお参りの次は、稲荷神社へ。

愛宕神社の先に、稲荷神社の特徴である赤い鳥居がすぐ見えました。


正面の鳥居の扁額には「正一位稲荷五社大明神」と書かれています。
正一位ということは京都・伏見の稲荷神社からの勧請ということでしょうか。

お稲荷様のお使いである御狐様の像があるこの神社の扁額は

「愛宕稲荷大明神」です。

この社の両サイドに建つ石祠は初めて見ました。

石祠の「破風(=屋根の三角の部分)」の中央に花が刻まれています。
AIと一緒に確認したところ、6枚ではなく、真ん中に線が入っていることを考慮に入れたら12枚。
6枚でも12枚でも菊の花と見てよいとAIは言っていますが、どうなのでしょう。
正直いって、菊であれば、私が追っている菊の花とまたつながります。


左奥の社です。

右から「恵比須大明神」「大黒大明神」、「白龍大明神」、「愛宕稲荷大明神」、「祐徳稲荷大明神」「白鬚稲荷大明神」と書かれた額が並んでいます。

そして右奥の社には「最上(さいじょう)稲荷」と額に書かれていました。
最上稲荷とは「日本三大稲荷」のひとつ、1200年以上の歴史を有する日蓮宗の寺院(岡山県)のようです。
愛宕神社の社殿の左側へ

稲荷神社の次は、最初に通ったお堂エリアへ。
神社というより仏教的な印象があるこちらのエリアですが

狛犬が出迎えてくれました。

逆側にも狛犬。

先程の愛宕神社の石階の由緒書きから、おそらくここは妙法寺の名残ではないかと思います。
お堂の周りに色々石造物がありますが、まずはこちらから。

お堂のなかを見ると「不動明王」の提灯があります。
そして不動明王像も見えました。

お堂の右側奥には二本の石柱。
これは私が移住した豊前エリアでよく見かける二本の石柱です。


不動明王の石仏もひっそりと。

「南無大師遍照金剛」と刻まれた柱に立つ石仏は、旅の姿(托鉢の姿)をした弘法大師像である「修行大師」だと思われます。

そして何かの痕跡。

これは経塚。

「経塚(きょうづか)」とは、一言で言えば「未来の人たちのために、大切なお経をタイムカプセルのように地面に埋めた場所」です。
私が移住した豊前市でも、旅先の豊後高田市でも、経塚が見つかっており、貴重なものとして保管されていました。
ここの経塚におさめられたお経はどこにいったのでしょう

石段を降りて

不動明王のお堂エリアの散策を終えたので、そろそろ次の目的地へと移動です。

お堂の上では、小さなクマバチがホバリング。
じっとこちらの様子を伺っているように見えました。

拡大してみたら…本当にじっと見ていますね。しかも笑顔っぽい。
距離があったのに、よく撮れたものです。

見た目は急に見えた石段ですが、ゆっくり降りれば大丈夫。

鳥居には「愛宕神社」の扁額がありましたが

扁額と本体の色が違いすぎますね。
鳥居の本体は「安永」と江戸時代中期の元号が刻まれていました。

地上に降りてきました。

そこには大正時代の石灯籠。

こちらは「安政」という江戸時代後期の元号が刻まれた石碑。

愛宕神社
慶長七年(一六〇二)細川忠興が小倉城築城に当たり、山上に防火の神火之迦具土神を祀る愛宕神社を建立した。
寛永九年(一六三二)細川藩の後に小笠原忠真が入国した。二代藩主忠雄は山麓に妙行寺を建て、愛宕神社は寺が持つ神社とし、明治当初の神仏分離により、到津八幡神社の末社となった。
愛宕神社の社殿の左側には古い経塚があり、柱の部分に「法華経典一千部を唱え、元亀三年(一五七二)閏正月二十五日に供養のため建立した」との内容が記されている。
また、山上にある神社へは老人や子供が上りにくかったので、小倉藩組の惣右衛門が石段を築いて参詣しやすくしようと思い立ち、天明八年(一七八八)から地元だけでなく、参勤交代の お供で江戸に行ったときも、多くの人々から少しずつ寄金を集めた。およそ二十五年後の文化九年(一八一二)に三十七両余となり、百三十一段を完成させた。
小倉北区役所
愛宕神社内の経塚
愛宕神社に行きたかった理由は小倉城の八坂神社
実は以前、小倉城の八坂神社を訪れるとき、神社について調べていたら、この愛宕神社との関連を知りました。
八坂神社は9世紀より祀られていたとされ、元和3年(1617年)に小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉城近くに移しました。
元和2年(1616年)の秋、忠興が小倉城の西側にある愛宕山(現小倉北区菜園場)へ鷹狩に出た際に、山の頂上に小さな石の祠(ほこら)があることに気づきました。
忠興が中のご神体(しんたい・まつられている神様)を見るために扉をこじ開けようとしたとき、中から飛び出した一羽の鷹が忠興の目を蹴り、忠興は失明同然となりました。(祠から飛び出した蜂が忠興を刺したとの説もあります)
気性が激しいことで知られる忠興も、この出来事には深く反省。神様に礼を失した罰だと考え、祠を立派な神社に建て替えました。その後間もなく、忠興の目が見えるようになったといわれています。
この出来事の後、忠興は家臣に命じて祠の由緒を調べさせたところ、忠興の生国である京都の祇園社と同じ御祭神・須佐之男命(スサノオ)を祀っていることが分かりました。
そこで改めて、城下の土地(現小倉北区鋳物師町)に神殿を造営したのです。
忠興は、南殿には愛宕山の祇園社を遷宮、そして三本松(現旦過市場周辺)の祇園社を北殿とし、一つの大きな神社を造りました。本殿は一つに見えますが、中には二つの祇園様が祀られています。二つの祇園様を一緒に祀っている神社は全国的にもさほど多くなく、珍しいものとされています。
もともと「祇園社」と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に明治政府が発した神仏分離令(神社から仏教的な要素を排除する政策)により、名称が「八坂神社」に改められました。
小倉城ものがたり から引用
この愛宕山の山頂の小さな石祠には、スサノオが祀られていたといいます。
そのスサノオを祀るために城下に神殿を造営し、大きな神社が造られたようです。
ただ私が気になった点がいくつかあります。
そもそもこの山の名前は、愛宕山ではなく違う名前ではなかったのか。
なぜならスサノオが祀られていたのでなら、当時の時代を考慮すると、それこそ「祇園」や「牛頭天王」ではないかと思ったのです。
京都の八坂神社の名前は明治の神仏分離以前は「祇園社」であり、牛頭天王が祀られていたというので。

また、小倉の地は、小倉藩初代藩主・細川忠興が地名を京都と同じ名前に変えたことは史実として残っています。
この小倉北区菜園場の愛宕山・愛宕神社がそうとは断定できませんが、そもそも「愛宕神社」はこの北部九州エリアでは数が多くありません。
情報源がどこかは不明ですが、愛宕山はかつて「不動山」であったという記述をいくつかのウェブサイトで確認できました。
何が言いたいかというと、この愛宕山に愛宕神社があるということが不思議に思ったのです。
スサノオ(牛頭天王)を移動させて、愛宕神社の御祭神(カグツチノカミ)を勧請した歴史があったのか。
福岡県神社誌で探しても、それらしき情報を見つけることができませんでした。
やはりここも気になる神社です。
愛宕神社の場所
小倉北区愛宕2丁目2番



